人や場所の記憶を受け取り伝える方法はひとつではないし、
特定の誰かが伝えていく必要もない。
受け取ったその人が自身の内面の世界に波紋を広げていった先に「継承」という行為が現れてくるのではないでしょうか。
これまで大きな主語で語ってこられた数々のこと、小さく小さく、個々の物語にしたときに見えてくる何かがあるのかもしれません。
長島から生まれる様々な対話によって、自分と異なる他者に触れる。
まだ知らない私自身を発見する。尊重という行為を知る。
そうして、新しい世界へ橋が架かっていくと私たちは信じています。
大切なことは、目に見えるとは限らないし、
聴こえてくるものでもないかもしれない。
はたまた、自分の輪郭さえ失うほどの闇の中で、
見つかるかもしれない。 国立療養所 長島愛生園は2030年に100周年を迎えます。
幾重にも重なった歴史を自身の身体を使って紐解き、
足元深く、内面にある新しい感覚を呼び覚ます。
ひらかれた長島から心に橋を架け渡します。

(一財)水俣病センター相思社

永野三智

NAGANO Michi

dialogue

喫茶さざなみハウス

鑓屋翔子

YARIYA Syoko

岡山大学文学部准教授

松村圭一郎

MATSUMURA Keiichiro

ここでみんなで
笑ってやってくれ

松村

ありがとうございました。鑓屋さん、ちょっと映像の説明をしていただければ。

鑓屋

先にお話ししたさざなみハウスの一番の常連さんだった清志初男さんがお亡くなりになってしまったので、
見送る会をしました。
その時の映像を残しておこうということで、映像を撮ってもらってそれを編集して作ったものです。

松村

いつ頃だったんですか?

鑓屋

2020年ですかね。2020年の8月に亡くなられたので。お店は2019年の7月にオープンしたので、半年足らずで清志さん癌になっちゃって。
それもみんなには言ってなくて。
あんなに元気だった清志さんが突然音沙汰がなくなって、ようやく会いに行ったら、すごいガリガリに痩せててみんなびっくりして、気づいたら、「えっ、清志さん亡くなったんですか?」みたいな。本当に突然のことだったので。
清志さんが「葬式でみんなメソメソするな。ここでみんなで笑ってやってくれ」っておっしゃってたのを思い出して、「これは絶対やらねば」と思って。
清志さんと仲が良かった職員さんに、清志さんの交友関係の人たちに連絡を取ってもらって、みんなで集まって。
清志さんは、愛生園の人はディナーショーとかを体験したことがないだろうから、自分がそういう場所をつくろうっていうことで、自分のアトリエにカラオケスタジオをつくっていて。
職員さんが歌が上手い人をスカウトして、そのスタジオで特訓をさせたりしてたんです。
実は私も一曲歌ったことがあるんですけど。

永野

何を歌ったんですか?

鑓屋

『木綿のハンカチーフ』です。

永野

お!「恋人よ~」。

鑓屋

そうです、そうです。すごい青いドレスを着て。

永野

わぁ、いいなぁ。

鑓屋

そのスタジオの舞台の装置というか、ギラギラっとした電飾なんかも。清志さんが作ってたものを全部さざなみハウスに持ってきて。

松村

元々清志さんが作られてたんですね。

鑓屋

それであんな赤紫のチカチカした妖艶なムードに。

永野

すごーい。

松村

でも関わって見送る会に参加された方って、療養所の関係者はもちろん、外の方とかいろんな方が来られてたんですよね。

鑓屋

そうです。
清志さんは、自治会にも属していなかったので、愛生園の中では一匹狼的な存在だったんですけど、絵を描くことにすごく没頭されてたし、夜は岡山市街のキャバレーやカラオケのライブハウスみたいなところに行ったりとか、私も一緒に連れて行かれてドキドキして生演奏で歌ったりとか。 そういうことを教えてもらったり。
芸術を愛する人だったので、瀬戸内で音楽活動している人を惜しみなく応援していて、そういう音楽関係の仲間とか支えられてきた人たちが演奏に来てくれました。

【つづきます】