人や場所の記憶を受け取り伝える方法はひとつではないし、
特定の誰かが伝えていく必要もない。
受け取ったその人が自身の内面の世界に波紋を広げていった先に「継承」という行為が現れてくるのではないでしょうか。
これまで大きな主語で語ってこられた数々のこと、小さく小さく、個々の物語にしたときに見えてくる何かがあるのかもしれません。
長島から生まれる様々な対話によって、自分と異なる他者に触れる。
まだ知らない私自身を発見する。尊重という行為を知る。
そうして、新しい世界へ橋が架かっていくと私たちは信じています。
大切なことは、目に見えるとは限らないし、
聴こえてくるものでもないかもしれない。
はたまた、自分の輪郭さえ失うほどの闇の中で、
見つかるかもしれない。 国立療養所 長島愛生園は2030年に100周年を迎えます。
幾重にも重なった歴史を自身の身体を使って紐解き、
足元深く、内面にある新しい感覚を呼び覚ます。
ひらかれた長島から心に橋を架け渡します。

(一財)水俣病センター相思社

永野三智

NAGANO Michi

dialogue

喫茶さざなみハウス

鑓屋翔子

YARIYA Syoko

岡山大学文学部准教授

松村圭一郎

MATSUMURA Keiichiro

それでも何か繋いでいきたい

松村

永野さんがおっしゃったような、ハンセン病をめぐるいろんな問題もまだ結構あると思うんですよね。
いろんな人のそれぞれの立場の様々な声とか。
鑓屋さんには、そういう現状がどういうふうに見えているか教えていただけますか。

鑓屋

さざなみハウスにいつもご夫婦で来られる方がいて、日常的な世間話をしていく中で、
ふとその人の名前の話になったんですけど、女性の方を初めは「奥さん」って呼んでたんですね。
でも、「“奥さん”じゃなくて、名前があるよな」って思って。
思い切って「お二人の名前を教えてください」って聞いたら、それぞれ名前を教えてくれて、
「二人とも親からもらった名前なんです」って女性の方がひと言付け加えられて、
「そうなんだ」って思ったんですけど。
その後よく考えたら、愛生園の人たちって入園してきた時に偽名、
園内で過ごすための名前を決めてくださいって言われるんですよね。
瀬戸内海で早く治るために「内海早治」とか、お医者さんが付けてくれたり、
いろんな当て字を使ったりして、ここで過ごしてる。
それは世間に対して家族が愛生園にいるってことがバレてはいけないとか、
いろんな理由があって名前を変えるんです。
急な私の質問に対して、名前とその由来まで教えてくれて。
その人たちの故郷や「これは親が付けてくれた名前」って教えてくれたことに対して、
あとからグッと愛おしく思えたんです。
ハンセン病の国に対しての訴訟だったり、過去のことをもう忘れたいし、
兄弟が結婚して家族をもつとなった時に、「愛生園に兄弟がいるってことは伏せといてくれ」
って縁を切られたり。
忘れたい人たちもたくさんいるなっていうのはすごく感じるので。
ここに来てくれる人はそれでも何か繋いでいきたいとか、
きっとそういう気持ちがあるんだろうし、いらっしゃらない方はやっぱり「踏み入ってくれるな」
みたいな気持ちを持ってるんじゃないかなと想像しながら。
お店の前をシニアカーが通り過ぎたりすると「この人は一度も寄ってきてくれたことがないな」
とか考えたりします。
永野さんが、「昔の伏線を回収するみたいに、当時はこうだったのか」
と楽しくなるって言われて、ハッとしたんです。
私はそういう昔の記憶がなくて、全部ここで聞く新しい話で。
その話が全部、この先私が生きやすくなるためのライフハックみたいに感じるというか。
そういう感覚が愛生園の人たちと話していたらすごくあって。

鑓屋

ハンセン病にまつわる書籍の中に、「少年の時に愛生園へ入所することになったが、
岡山駅から長島まで橋が壊れるなど、不慮のことが重なって夜歩くことになった。
職員が自転車で迎えに来てくれたが、触るなと言われる病気だったため、
迎えに来てくれた職員に触れることができず。
とてもバランスが悪いので尾てい骨が痛み、自転車を降りて夜通し歩いて長島に到着した」
という一節があって。
私の友人がそれを読んで「歩いてみよう」って言うから、「じゃあ私も歩く」って、
岡山から長島まで約40キロを歩くという企画をやって。
3回ぐらい参加者を集って歩いてるんですけど、初回はただしんどいだけだったんです。
すっごい疲れて立ち上がれないぐらい。
その当時の少年に想いを馳せようと思ってたんですけど、
全然それどころじゃなくて。
疲れた、お風呂入りたいって。
10時間ぐらいかかるんですね。
何かしら話してたんだけど、全部忘れてて。
「あの時何話したっけな」って全然思い出せなかったんです。
でも、2回目に歩いた時に同じ風景を見たら、記憶がすごいよみがえってきて
「あっ、この時この人はこの辺にいて、あの人はこっちにいて、こういう話をした」とか、
「ここを踏んで歩いた」とか。
景色にバーチャル映像が映るかのごとく、歩けば歩くほど記憶がよみがえってきて、
すごい不思議な経験をしたんです。
それ以来、目の前の海を見るとこの海って私はたかだか3年ぐらいの記憶しかないけど、
愛生園にいる人はずっとこの海を見続けていて、昔はここで泳いだり、
釣りしたりとか、船で初めて沖まで出たら突然船から投げ飛ばされて泳いで帰ったとか、
脱走するために海を夜通し泳いだとかってそういう記憶をこの海は覚えているんだろうなと思って。
長島には居住地区から東の方に行くともう使われてない牛舎の跡だったり、
畑の跡とか、いっぱいあるんです。
そこがハイキングコースになっていて。
何度も歩いてるんですけど、最初は人気もないし、イノシシとか鹿とか出てきちゃうし、
小屋も牛舎も朽ち果てて、すっごい怖くて。
でも回数を重ねて歩く度に「あっ、甘夏がある!」って見つけて取ったり、
「ここの甘夏はおれが植えたんじゃ」とか、「あそこの竹林はタケノコを取りたいからって、
他の土地から移植して竹林を作ったんじゃ。
あの小屋はいろんな所から廃材を拾って建てて」とか、当時の話を聞いていくと、
段々歩いてても怖くなくなってきて。
長島はこの人たちの手が入ってる土地なんだとか、そういう記憶がどんどん自分の生活ともリンクしてきて。
えっと、最初の問いかけを忘れてしまったんですけど。

永野

いいです、いいです、すごい楽しいです。

松村

それは永野さんがビナをおばあさんと一緒に取りに行くとか、
水俣病事件への関わり方って一生懸命メモを取って勉強するだけじゃなくて、
その時代を生きてた人の記憶をもう一回自分も生きるというか。
おばあさんが子ども時代に取ったようにビナを食べるみたいな経験をするとか。
先ほど永野さん、「共にある」っておっしゃいましたよね。

永野

私だってこうやってツワの調理の仕方をフムフムって。
これは私が知らないやり方だって、「知りたいです!」
って言ってメモしてるんですよ。

松村

今回もお話をしながらツワをずっと剥いてらっしゃるんですよね。
なんで下を向いてるのか、みなさん気がかりだったかもしれないですけど。

永野

ツワです。ツワンコでーす!

松村

聴いてらっしゃる方で何か質問されたい方がいらっしゃるかと思うので、
ちょっとだけ休憩をとって、その間にチャットに書き込んでもらいましょう。
あ、すごいツワいっぱいですね。

永野

たくさん剥けました。

松村

だいぶはかどりましたね、この時間に。

鑓屋

すごい。灰汁がいっぱい出てる。

永野

爪が真っ黒ですが、まぁいいんです。
この辺では、「この時期に爪が黒くなからんば、主婦じゃなか」、
なんて言いますんで。

松村

ちょっと休憩を入れましょう。

【つづきます】