人や場所の記憶を受け取り伝える方法はひとつではないし、
特定の誰かが伝えていく必要もない。
受け取ったその人が自身の内面の世界に波紋を広げていった先に「継承」という行為が現れてくるのではないでしょうか。
これまで大きな主語で語ってこられた数々のこと、小さく小さく、個々の物語にしたときに見えてくる何かがあるのかもしれません。
長島から生まれる様々な対話によって、自分と異なる他者に触れる。
まだ知らない私自身を発見する。尊重という行為を知る。
そうして、新しい世界へ橋が架かっていくと私たちは信じています。
大切なことは、目に見えるとは限らないし、
聴こえてくるものでもないかもしれない。
はたまた、自分の輪郭さえ失うほどの闇の中で、
見つかるかもしれない。 国立療養所 長島愛生園は2030年に100周年を迎えます。
幾重にも重なった歴史を自身の身体を使って紐解き、
足元深く、内面にある新しい感覚を呼び覚ます。
ひらかれた長島から心に橋を架け渡します。

(一財)水俣病センター相思社

永野三智

NAGANO Michi

dialogue

喫茶さざなみハウス

鑓屋翔子

YARIYA Syoko

岡山大学文学部准教授

松村圭一郎

MATSUMURA Keiichiro

当事者じゃない
一人の私として

松村

鑓屋さんも永野さんに比べると短い期間かもしれないですけど、
いろんな方にお話聞く中で、最初のイメージとは違う側面を持っていらっしゃったり、
話してくれると思ったけど、口ごもってしまうことがあったり、いろんな経験をなさってると思うんですけど、
今の永野さんのお話を聞いて同じように感じたことがあったら教えてください。

鑓屋

今日このトークを始めるお昼ぐらいまでは、入所者の女性が面会に来られた方たちとお昼を食べたいっていうので、ひっそりと営業をしてたんです。
最近すごく分厚い鉄板でお好み焼きを焼くのにハマっているので、その彼女には、お好み焼きを出そうと思って準備してる時に、
さざなみハウスのことを新聞の記事で見て横浜から来たっていう方が、急にいらっしゃって。
「ちょっとお茶だけでもいいですか」っておっしゃるので、お通ししたんですけど。
そのふた組が一緒になったら、横浜からきた方たちは「ここってどういうとこですか」って聞いてこられるし、
ハンセン病についても聞いてこられるのを、背後でお好み焼きを食べてる入所者の女性たち前で何て言おうかなっていう。
いつもその説明の言葉を当事者がいる公共というか、そういう場でどう使うかっていうのはすごく考えることではあります。
愛生園の人たちは家族のことや自分の生い立ちとかを隠して生きてきた人もいるし、
そうじゃない人ももちろんいるんですけど、すごく匿名性の高いところで聞いた話をエピソードとして誰かに伝える時に、
どこまで伝えたらいいのかなと思ったり。
入所者の方々と病気云々の前に、このおじいさんとかおばあさんと何の話題を話したら盛り上がるんだろうと考えながらお話するんですけど、
その中で「あっ、この話は何か違ったな」って、話した後に気づくとか、「ちょっと気を悪くしたんじゃないかな」とか、
そういうこともあったりします。
ストーリープロジェクトの映像をお願いする時には、いつも何でも協力してくれる方に、
「いろいろお話を聞いて、映像に残すということをしたいんですけど」って言ったら、「そういう不特定多数の人に触れる映像はちょっと困る」って。
「自分の家族はまだ病気のことを内緒にしているし、パッとしたとこで喋るのはいいんだけど、そういうのは困るんだ」と言われたりして思いがけずその人のバックボーンを知って、
「私、なんて軽率なことをしてしまったんだろう」って、ひどく自己嫌悪に陥ることも、やっぱりあるし。
入所者の方にちょっと物を返しに行くとか、様子を見に行くって時は、すごい覚悟が必要なんです。
なんでかっていうと、話が始まったら、1時間ぐらいは帰れなくなっちゃうので、「よし、今日は時間に余裕を持たせた」っていう時じゃないと難しくて。
いざ行くと、すでに帰る態勢なんだけど、中腰のまま30分以上喋るとか。そんな時もたくさんあって。
そのまま夜のテレビを一緒に見ちゃったりとか、そういう時間を共有することで、私自身もその方により気軽に近寄れるっていうか、
話しに行けるなっていう気持ちになったりするし。
自分の一日の時間に占める割合がすごく増えて、
「私の頭の中、おじいさんとおばあさんばっかりだなぁ」って感じになったりもします。
時間を共有することで少しずつ私がやってる活動とかも 理解してくれたり、自分が執筆した『愛生』あるから持っていきなよって、
お声をかけてくれる人たちもいるので、時間って大事だなぁって思ったりします。

松村

先ほどの永野さんのお話にもあったように、多くの人は問題の当事者じゃないわけですよね。
自分が被害を受けたわけじゃないし、歴史を詳しく知ってるわけでもない。
まして水俣の近くに生まれ育ったわけでもない。
そういう人たちはあんまり水俣病について自分の意見とか言えないし、どういうふうに関わればいいのかなって、ためらうという。
私自身もそうなんですが、そういうためらいを感じる方って、このトークを聴いている方の中にもいらっしゃると思うんです。
鑓屋さんもハンセン病についてほとんど知らない一人の若者として、あまり関わりもないまま岡山で暮らしてきたと思うんですが。
それでも長島で当事者じゃない一人の人間として、どういう関係を築いてきたのかとか、築こうとしているのかって。
自分の立ち位置みたいなことって、いろいろ迷いもあると思うんですけど、どういうふうに変化してきました?

鑓屋

さざなみハウスを始めた大きな理由の一つは、自分のお店を持ってみたかったっていうことで、それがたまたま長島になったんですけど。
以前は岡山市内のお店で、スタッフとして働いていたことがあって、その時からずっと考えてるのは、
「この場所にはどういう意味があるんだろう」っていうこと。
あまりお客さんが来ないお店でもあったので、「わざわざお店を出してその場所にいる理由って何なんだろう?」っていうことをすごく考えていて。
さざなみハウスもそんな気持ちで始めて、どんなお客さんが来るのかわからなかったので、
実際に対応してるうちにこういうお店のスタイルになっていったっていう感じなんですけど。
ここに来る人、来る人、みんなすごくおしゃべりをなさるんです。波の音が聞こえる環境だからなのか、
島へ小旅行に来た感覚になるからなのか、わからないんですけど。
いろんな人が思いがけずカウンターに来てくれて、初めての人でもすごく話が弾んで次にまた来てくれたりとか。
この間もスタッフ募集をしたら、突然大阪にいる男の子が「自分の行く先どうなるかわかんないけど、とりあえず働いてみたい」
という連絡をくれて土日にやってきてくれたりとか。
人がこの場所を必要としている感覚っていうのをすごく実感できるようになっていて。
入所者の人たちはお店に来る人もいるし、外に出たくないっていう人たちもいて、いろいろなんですけど、
愛生園の中にいるといろんな関係者の人たちがやってきて、
ある時「さざなみハウスって支援の場っていうか、鑓屋さんってハンセン病問題に対する支援者だよね」って、言われたんです。
「自分の店を持ちたい」「こういう場所がどういうとこなのか考えたい」っていう私の動機のなかに突然”支援者”っていうワードを放り込まれて、
「私、何か支援してるかな?」ってすごく考えたんですけど。
私は自分のためというか、入所者の人たちから話を聞くのも、すごくおもしろいってまず思って。
文章を書くことも好きなので、「素材としていろんなおもしろい話を聞けるからメモメモ」みたいな、そんな気持ちでいたので、
「支援じゃないな」とは最近思っていて。
「この場所はどういう場所だから、支援なのかそうじゃないのか」みたいな場所の定義は必ずしも必要ないような感覚になっているんですけど。
お店に来ない人たちもお店を続けたことで、私がその人が作ってる作品を見に行くとか、
この一年ぐらいでお宅訪問ができるようになってきて、看護師さんとか介護士さんたちも
「鑓屋さん、鑓屋さん」って言って通してくださったり。
作ってくれたご飯や鍋を一緒に食べるとか、お店を出て入所者の人たちに会いに行くっていうことがすごく増えてきて。
喫茶店をやってるんだけど、いつの間にか自分のフィールドが拡がってきて、お店を出て行ってお宅訪問しちゃう。
この感じは何なんだろうなぁって思いながら、日々支えられてなんとかお店を回している感じです。

【つづきます】