人や場所の記憶を受け取り伝える方法はひとつではないし、
特定の誰かが伝えていく必要もない。
受け取ったその人が自身の内面の世界に波紋を広げていった先に「継承」という行為が現れてくるのではないでしょうか。
これまで大きな主語で語ってこられた数々のこと、小さく小さく、個々の物語にしたときに見えてくる何かがあるのかもしれません。
長島から生まれる様々な対話によって、自分と異なる他者に触れる。
まだ知らない私自身を発見する。尊重という行為を知る。
そうして、新しい世界へ橋が架かっていくと私たちは信じています。
大切なことは、目に見えるとは限らないし、
聴こえてくるものでもないかもしれない。
はたまた、自分の輪郭さえ失うほどの闇の中で、
見つかるかもしれない。 国立療養所 長島愛生園は2030年に100周年を迎えます。
幾重にも重なった歴史を自身の身体を使って紐解き、
足元深く、内面にある新しい感覚を呼び覚ます。
ひらかれた長島から心に橋を架け渡します。

(一財)水俣病センター相思社

永野三智

NAGANO Michi

dialogue

喫茶さざなみハウス

鑓屋翔子

YARIYA Syoko

岡山大学文学部准教授

松村圭一郎

MATSUMURA Keiichiro

語れなさを語る、
時間と場所

永野

相思社の中も、また水俣のいろんな団体も一枚岩ってわけじゃないんですよ。でもそれは、みんなが「私を生きている」からだと思います。
運動が盛んだった頃はリーダーがいて、それを支える人たちがいて、リーダーの扇動によってうまくいってたと思うんですが、もうそういう時代じゃないもんね。
語れない人たちや、語らない人たちの存在があるっていうことも大切にしたい。こんなふうにしてベラベラ喋る私たちだけじゃない。
相思社に来る人たちの中で「自分には語る資格がない」とか、「こんな大きな事件を目の前にして語れない」という人たちもいるんですけど、その「語れなさを語る」ことを大切にしてほしいと思うんですよね。
長くやってるとその「語れなさ」がなくなって。その逡巡や、声にならない声がいかに大切かを思います。私の中のそういうものが、水俣病のことを少し長くやってきて奪われてというか、自分で奪ってきてしまったと思うんです。
ハンセン病のことで鑓屋さんとのお話しの中で思うのは、ハンセン病のことを語れないとか、モヤモヤする、どうしようみたいな、そういうものとの出合いは大切で。
そうやってモヤモヤできるとか語れないことが許される場を確保したいと思うんですよね。
大体患者相談とかでも二時間とかとりとめのない話をして、見送る時に玄関先でドーン!と「そんな重い話を帰り際にする?」という話しがでてきて。でも、その前の二時間がなかったら、話せなかったのかもしれない。
そのとりとめのない話をしながら、この爆弾を落とそうか、落とすまいかみたいな。 その逡巡の二時間が必要だったんだろうなと思うんですよ。

永野

先日の打ち合わせの時におばあちゃんがいたでしょ?
彼女、18時半から夕飯を一緒に食べる予定だったんですよ。
そしたら13時にいらっしゃって、「今日14時から打ち合わせなんだよな。
どうしようかな。」と思って。
とりあえずお昼ご飯食べて一緒にお茶を飲んで、「どうします18時半まで?」っていうと、
「ビナ(巻貝)を拾いに行きたい」って言うので、
「じゃあ15時半ぐらいに仕事の打ち合わせ終わるから、それから行きましょう」って。
「15時半まではどうやって過ごしますか?」って聞くと、「事務棟におるけん」って、「じゃあ私、縁側でちょっと仕事してます」って言うと、
事務棟にいると言ったはずなのに、パタパタと後ろからついていらして、私の隣で居眠りをしたり、庭の草むしりをしたり、
最後には鑓屋さんや松村さんを前にして炭坑節を踊ったりして。
打ち合わせの日は、彼女の妹さんの命日だったんですよ。
それでビナを拾ってツワを採って、ノビルを採ってお料理をして…、
彼女の頭の中ではそうだったと思うんです。
私の頭の中ではちらし寿司を作って18時半になったらお迎えに行って、お弔いというか、
供養をしながらみんなでご飯を食べたらいいなと思って伝えていたし、
材料も揃えていたんですけど、そんな約束を守ってくれる人ではなく。
彼女は、毎年妹さんの命日になるとお坊さんを連れてきて相思社でお参りをしてたんですね。
それ以外の日もやってきては妹さんの話をして、
「自分が毒(有機水銀)入りのビナを食べさせた。でも、妹の体が悪くなればなるほど栄養つけてやろうと思ってビナを獲ってきて食べさせて、それで妹は死んでしまった」って。
「だけど仕方なかったもんね」って。
「美味かったもんね、ビナが。ワッハッハー」って。
「誰も教えんかったもね、ワッハッハー」って豪快に笑うんです。
本当にそういう悲しい話を笑いながらする人なんですけど、
その彼女が一年に一度だけ涙を流すのが、お坊さんを連れてきて妹さんにお経をあげる命日なんですね。
そのお経をあげて。普段はゲラゲラ笑うお姉さんが泣いて話をするのを前に、どういう顔をして聞いていればいいのか、
どうしたらこの人が楽になれるんだろうとか、どうやってこの人の話を理解して、
応答したらいいのかってことが、この12~3年分からずに来たんですよね。
とにかく話を聞いて、聞いて、聞いてって、それしかできなかった。

永野

そのおばあちゃんはね、人が好きなんです。
相思社に人が来ると一緒にご飯を食べたり、勉強もよくしてるんですよ。
「私は J Soul Brothersが好きで」とか言って、大学生と話を合わせるんですよね。
本当に努力家なんです。
そして必ず妹さんのお話もするんです。
相思社にはほんとにいろんな人が来るんですけど、一昨年だったかな、なんと山伏がやってきたんですよ。
山伏が相思社の仏壇の前でお経をあげてくれたんです。
その後に三味線で語りをしてくれた。
そしたら彼女が、「妹は歌と踊りが好きじゃった」って。
「こうやって妹にお経をあげてくれてありがとう。
来年の妹の命日にもお経をあげに来てください。
毎年お坊さんに頼んでるけど、来年はあんたがいい」って言って、次の年もわざわざ奈良から山伏を呼び寄せたんですよね。
その時に山伏さんは、妹さんが「歌と踊りが好きで」っていうことを気にかけてくれて、大阪からわざわざチンドン屋さんを連れてきたんですよ。
祈りを捧げる歌を歌うイジョンミさんっていう人も連れてきてくれた。
その命日の夜は嵐だったんですけど、いろんな人たちが集まって歌と踊りをやったんですよ。
最初の挨拶の時に受け入れ側としてお礼を言おうと思ってマイクを取ったら、「ちょっと貸さんな」って言って、「今日は妹のために」って、彼女が代わりに挨拶をしてくれたんです。
「患者家族」と知られたくない人が相思社へ相談にきたりします。
未だに水俣病へのタブーがある水俣です。
「この方がお姉さんですよ」ってみんなに紹介されたくないかもしれないって、勝手に気を遣ったんですけど、タブーは私が作っていたのかもしれないと思いました。
それでもう、本当に楽しかったんです。
歌って踊って。彼女が一番楽しんでた。
その命日の後、三日間寝込んだらしく、三日後にまたやってきて。
やってきたけど、妹さんのお参りをしないんですよ。
妹さんのお参りをせずに二時間ぐらい彼女ご自身の話をして帰られたんです。
私も今まで一度も聞いたことがないご自身の話を。

永野

そこからずっと彼女の話を聞いてまとめたのが、冒頭でご紹介いただいた『ごんずい』の「出月原の昭和12年生まれの女性の話」っていうのもなんですけど。
それもね、私は13年ぐらい同じ話を100回以上聞いて、空で言えるぐらいになってたんですけど、その彼女ご自身にまつわる話は聞いたことがなくって。
それは多分、彼女だけではなく、たくさんの人々が妹さんのために祈る中で、彼女自身も自分、つまり「私」に立ち返ることができたっていう、
そういう瞬間だったんじゃないかと思うんですよね。
一人でずっと背負ってきたもの、抱えてきたものを降ろせたんじゃないかなって。
それは私だけでは絶対できなくて。
山伏さんだったり、チンドン屋さんだったり、祈りを歌に変えてくれる人だったり、一緒に祈ろうと思って集ってくれた人だったり、
そういう人たちがいてくれてようやくだったと思うし、そう思うと同時に、この13年の時間がなければ、できなかったことでもあるなって最近思って。
なんていうか、無駄に思える時間こそがとても大切で、「長くやっとってよかった」って。
じゃないと、山伏とその方が出会うこともなければ、こんな場面には遭遇できなかった。
これは財産になりましたね。

【つづきます】