人や場所の記憶を受け取り伝える方法はひとつではないし、
特定の誰かが伝えていく必要もない。
受け取ったその人が自身の内面の世界に波紋を広げていった先に「継承」という行為が現れてくるのではないでしょうか。
これまで大きな主語で語ってこられた数々のこと、小さく小さく、個々の物語にしたときに見えてくる何かがあるのかもしれません。
長島から生まれる様々な対話によって、自分と異なる他者に触れる。
まだ知らない私自身を発見する。尊重という行為を知る。
そうして、新しい世界へ橋が架かっていくと私たちは信じています。
大切なことは、目に見えるとは限らないし、
聴こえてくるものでもないかもしれない。
はたまた、自分の輪郭さえ失うほどの闇の中で、
見つかるかもしれない。 国立療養所 長島愛生園は2030年に100周年を迎えます。
幾重にも重なった歴史を自身の身体を使って紐解き、
足元深く、内面にある新しい感覚を呼び覚ます。
ひらかれた長島から心に橋を架け渡します。

(一財)水俣病センター相思社

永野三智

NAGANO Michi

dialogue

喫茶さざなみハウス

鑓屋翔子

YARIYA Syoko

岡山大学文学部准教授

松村圭一郎

MATSUMURA Keiichiro

自分が語らなくても、
他の人が語ってくれる

松村

鑓屋さんおっしゃったように、最初は長島をよく知る方とか入所者の方とか関係者の方がいらっしゃってたという話ですけど、
最近は喫茶店として結構人気になっていて、本当にデザートとか美味しくて。
岡山でこんなレベルの高いパフェとか出すお店はないんじゃないかっていうぐらい。
それもあって、愛生園のことなど何も知らず、インスタを見て訪ねて来られるお客さんも多くなっていると思うんですが、
そういう広がりをどういうふうに感じていらっしゃいますか?

鑓屋

地元のタウン情報誌にカフェとして掲載されるようになったことをきっかけに、いろんな若い人たちが来るようになって。
長島の近くには、牡蠣のお好み焼き『カキオコ』が有名な日生(ひなせ)っていう港町があるんですけど、
『カキオコ』を食べてお茶をしに来るとか。
どこかに行ったついでに寄ったとかで、「ここって何があるんですか?」って聞かれて、
「歴史館とかがあって、この辺は歩いて行けますよ」とか。
そんな機会がすごく増えて、ガイドさんみたいな気持ちでいます。

松村

永野さんのいらっしゃる相思社は、「水俣病を勉強したい」っていう方が、外から来られることが多いですか?

永野

基本的にはそうですね。
敷地に足を踏み入れたら誰にも見られない場所なので、患者相談に来る人とかは、割と安心して来られるんじゃないかと思います。

松村

水俣病という名前とか、事件の経緯を歴史的にご存知の方はたくさんいらっしゃると思う一方で、
水俣の事件を人々が現在どのように学んでいるかとか、若い人が結構移住してきているっていう話を永野さんからうかがったんですけど、
その辺りの水俣の現状はあんまり知られてないと思うんですよね。
もう水俣病のことは過去のことになってるんじゃないかっていうイメージがあるんですけど、
未だに若い人が吸い寄せられているところもあると思うんです。
その辺りの動きをちょっと教えてもらってもいいですか?

永野

若い人に若い人が吸い寄せられて来る、というところもあると思うんですよね。
水俣病を語る人たちが増えている。
この間打ち合わせの時に初めて自分の口から「水俣病の継承問題はもう終わっています」という言葉が出てきて、
びっくりしちゃったんです。
水俣で水俣病を語る若い人たちの存在を見て、そう感じているんです。
とても自由に語る。
水俣病事件と出合ってとか、患者と出会ってとか、私はこんなふうに感じたとか考えたとか、
「これは私の考えなんですけどね」って、私見を語るんですよ。
例えばマニュアル通りに話をして、それ以外のことは語らないとか質問に応じないということが、
他の歴史的な事件を継承する場ではあると聞くんですけど、水俣はそれがない。
自由にみんなが語って自分の水俣病を作り上げていく、誰の水俣病でもない、自分だけの水俣病をそれぞれが持っている。
私も、その人たちの語りに感化されて刺激を受けて語っていく。
外から来た人たち、いわゆる「遅れてきた」と言われる人たちが私に与えてくれる圧倒的な安心感みたいなものがあるんですよ。
それは水俣の他の人たちも感じていると思います。
やっぱり、水俣に生きてる人間が水俣病に触れるってとても怖いことですよ。
だけど、その怖いことを外から来た人たちが一緒にやってくれる、語ってくれる。
支えられますよね。最近水俣出身の若い人も、水俣病のことを語ったり、自分の仕事と水俣病を絡めて活動したりとかもしていて。
そういう動きを見てると、継承の問題っていうのは、もう終わったんじゃないかなって思うんです。

松村

長島にとっても水俣にとっても大きな問題というか、過去のものになってしまうんじゃないかとか、
どうやって記録を残すかって、先ほど鑓屋さんもおっしゃってたんですけど、
愛生園の入所者の方も本当に高齢化されてるし、残された時間が少ないという時に、
歴史的にずっと長い間続いてきたことがなかったことにされるっていう危惧は、
たくさんの方が持ってらっしゃると思うんですね。
だから長島のハンセン病療養所を世界遺産に登録しようという運動も今起きているわけですけど、
今の永野さんの話すごいなと思うんですけど、鑓屋さんはどういうふうに聞かれました?

鑓屋

継承の問題が終わってるって聞いて、私も「えーっ!?」て、正直思いました。
私はまだハンセン病とかこの長島に関わって三年ぐらいなんですけれど、
歴史のことも捉え方も様々で、それぞれの立場から継承とか、啓発活動が行われているんですけど、入口が様々すぎて。
そっちから入った人とこっちから入った人が分かり合えないということも、短いながらにも目にしてきているので、
自由に語れるっていうのは、それぞれの言葉に寛容になれてるのかなって。
ちょっと驚きがあります。
でも、愛生園の自治会長の中尾さんも「自分が語らなくても、他の人が語ってくれるってええな」って言われていて。
「中尾さんの口からそんな言葉が聞けるなんてすごい。
なんてこの人は寛容な人なんだろう」って思ったんですけれど。
今コロナ禍でみなさんが来ることができないから、もう87歳の中尾さんたちもオンラインをすごく活用して語ってるんです。
小学生たちとの対話の中で、「小学生たちが思った言葉をそのまま素直に受け取って、新聞に作文を載せてくれたりとか、
いろんなふうに広がっていくのが嬉しいんじゃ」っておっしゃっていて。
そもそも中尾さんが何で語り部の活動を一生懸命されてるかっていうと、
愛生園の先輩たちの意思や園の歴史を引き継いで残していかなきゃいけないっていう、
強い想いをお持ちのようで、そんな中尾さんの話を私も引き継いでいきたいって思ったし。
さざなみハウスをオープンして最初の常連さんっていうのは、清志初男さんっていう、もうお亡くなりになった画家の方だったんです。
当時92歳とか91歳とか、毎日のように来て。
「本当は自分がこういう喫茶店をこの島でやりたかった」と言われていて。
世代の違いもあって、センスとかおしゃれの感覚が全然違う人だから、お店のさわやかな雰囲気にはない昭和歌謡のギラギラした雰囲気を持ってきちゃうような人で、
私も「いやいや、それはちょっと」って、日々攻防をして過ごしていたんですけど、ハンセン病患者って聞いて弱者のイメージを抱いていたんですけど、
正反対。
生気に満ちて、しかもグイグイ来る強引な方で。
最初の清志さんで自分の抱いていたハンセン病とか長島に対するイメージが崩されたという感じだったんです。
「この人たちすごいよ」みたいなところを私はどんどん伝えていきたいと思っていて。
そう思ってたら、お店に来てくれる人たちもそういう話をしっかり聞いてくださったりとか、お店に入所者の人たちがいたら、
お客さんとみんな自然に挨拶をしたり。
そういう意味では、私もお店にいて外から来る方たちに安心感を与えてもらってます。
『愛生を読む会』という読書会を現在運営していて。
『愛生』は、愛生園で出版している機関誌なんです。
戦争中を除いて、開園当時から月刊ペースで、今も隔月ペースで出版していて。
昔は入所者の人たちが編集して作ってたけど、今は職員さんが編集を担当してます。
生活の記録とかいろんな文芸作品が載ってて、小難しそうなイメージもあるんですけど、どんなものだろうと思って読んでみると、
みなさんすごいおもしろいっておっしゃってくれて。
さざなみハウス以外でも、「ぜひ『愛生を読む会』をやってほしい」とか、毎月みんなで集まって読んでくれたりとか。
私だけじゃなくて、たくさんの人たちで一緒にハンセン病や長島のことを寛容な状態でお互い話し合えるという安心感が生まれているので。
永野さんの相思社のような、いろんな人が自由に語れるような場所になっていったらいいなっていう希望を持っています。

【つづきます】