人や場所の記憶を受け取り伝える方法はひとつではないし、
特定の誰かが伝えていく必要もない。
受け取ったその人が自身の内面の世界に波紋を広げていった先に「継承」という行為が現れてくるのではないでしょうか。
これまで大きな主語で語ってこられた数々のこと、小さく小さく、個々の物語にしたときに見えてくる何かがあるのかもしれません。
長島から生まれる様々な対話によって、自分と異なる他者に触れる。
まだ知らない私自身を発見する。尊重という行為を知る。
そうして、新しい世界へ橋が架かっていくと私たちは信じています。
大切なことは、目に見えるとは限らないし、
聴こえてくるものでもないかもしれない。
はたまた、自分の輪郭さえ失うほどの闇の中で、
見つかるかもしれない。 国立療養所 長島愛生園は2030年に100周年を迎えます。
幾重にも重なった歴史を自身の身体を使って紐解き、
足元深く、内面にある新しい感覚を呼び覚ます。
ひらかれた長島から心に橋を架け渡します。

対等に対話することの
難しさに改めて向き合う

Panel Discussion

ジャーナリスト
NPO法人8bitNews代表理事

堀 潤

HORI Jun

ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパン
代表

志村真介

SHIMURA Shinsuke

一般社団法人ダイアローグ・ジャパン・
ソサエティ 代表理事

志村季世恵

SHIMURA Kiyoe

長島愛生園自治会 会長

和田夏実

WADA Natsumi

東京大学大学院 総合文化研究科 研究員

中尾伸治

NAKAO Shinji

長島愛生園 園長

山本典良

YAMADA Noriyoshi

長島愛生園 学芸員

田村朋久

TAMURA Tomohisa

Moderator

北九州市立大学ビジネススクール
特任教授/TAO CAFE 代表

林田暢明

HAYASHIDA Nobuaki

TEXT:大石 始

2組の基調講演に続き、ジャーナリストの堀潤の司会によるパネルディスカッションが行われた。
「あらたな対話で継承をひらき、橋を架けていく」ために私たちは何ができるのだろうか。
7年前から長島愛生園で園長を務める山本典良はこう話す。

山本典良

「今ではハンセン病自体治る病気になって、後遺症を残さずに治るようになりました。今の療養所には、らい菌という菌を持っている方はひとりもいらっしゃいません。
ただ、今後入所者がゼロになった時点で、国立療養所としての長島愛生園も終わりになります。
じゃあ、そのまま長島愛生園が終わっていいのか、園長になって以降ずっと考えてるんですね。
ハンセン病のことをどのように伝えていくべきか。それを今から考えていきたいなと思っています」

長島愛生園学芸員の田村朋久からは継承についての具体的な取り組みについて語られた。
そのひとつが、入所者に代わってハンセン病の歴史や入所者の体験を学芸員が話す継承講話だ。

田村朋久

「私たちは入所者個人の生きてきた足跡をどのような形で引き継いでいくことができるのか、ひとつの課題として考えてきました。
広島ではボランティアの方が被爆者の方々の人生を聞き取り、それをまたボランティアの方が伝える継承講話が行われているんですが、愛生園でもそうした取り組みを進めています。
入所者の方々は療養所に入ってこられるまでにさまざまな差別を受けてきたわけですね。
多くの方々が周囲の目・社会の目を恐れてきた背景がある。
今回のコロナ禍においても、仮に感染したときに社会・地域の目を恐れるという、ハンセン病と同じ構造が繰り返されています。
障害者や感染症の患者さんとも社会全体として共に生きていく。
ハンセン病の問題をきっかけのひとつにして、そういった社会を後世の人たちに伝えていきたいと考えています」

田村学芸員が話すように、社会の分断が急激に進むコロナ禍において、ハンセン病の事例は多くのことを私たちに伝えてくれる。
堀も「コロナの当事者になってみて初めて分断というものを身近に感じた方も少なくなかったと思うんですよね」と話したうえで、こう続ける。

堀 潤

「社会の中で『あちら側とこちら側』が分けられてしまい、声も届かなければ聞く耳を持ってもらえない。
そういうことがコロナ以前からいくらでもあったわけですね。
そうした分断に対していかに私たち自身が無関心であったか、もう一度見つめ直す機会にもなっていると思うんです」

無関心をどう乗り越えていくことができるのか。志村真介と志村季世恵はそうした問いに対してこう答える。

志村真介

「毎日毎日悲惨な映像を見てるともういいやって思ってしまいがちですよね。情報過多になってしまい、感性が落ちてしまう。なので、対等な対話をする準備段階として、自分の感性を柔らかくすることが必要だと思います」

志村季世恵

「目や耳で情報を知るのと『出会い』って違うんですよね。出会いのチャンスを作っていくのかが大切なんじゃないかなとも思います。たまたま私の義理の姉がウクライナ人なんですが、その姉が考えていることはニュースで伝えられていることとやっぱり違うんですね。いろんな人と付き合うことが大事なんじゃないかと思います」

体験することの意義について、堀と和田はこう語る。

堀 潤

「数年前、愛生園の宿泊施設に泊めていただいたとき、夜の風の音とか、夜の島の雰囲気を体感したんですね。
そのときの記憶のほうが、これまでの取材を通じて知った情報を超えていくような感覚があったんですね。

同じ場所にいることの価値っていうのはすごくあると思うんですよ」 和田夏実 「私は(ろう者が)自分の父と母というすごく近いところにいたので、共に共闘していくチームみたいな感じがあるんですね。
でも、一歩引いてみて、日常のなかで障害者と出会う機会があるかというと、学校の授業や講演会を聞くような形でしかない。
実際に出会うことによって自分の世界が一変するような感覚があると思いますし、そこにはまだまだ開拓の余地があるんじゃないかなとも思います」

体験の重要性が語られる一方で、山本園長と中尾会長からは対話の難しさが語られた。ふたりの生々しい証言からパネルディスカッションはもう一歩踏み込んだものへと展開されていった。

山本典良

「対話をすることによって、お互いがお互いを知ることができます。ただ、対話をすれば衝突が生まれます。その衝突をどのように解決していくか、ハンセン病の歴史から学べることはあると思います。
かつてのハンセン病は目に見えて障害が残るんで、江戸時代より前は自宅の奥座敷に引き込まれたり、自分自身も出て行かないまま一生を終えていく人も多かったんです。
その後明治に入ってから互いに対話をすればよかったんですが、ハンセン病が治らない病気だった時代の患者の写真を見たうえで、本当に会話をできますか。
自分の心に壁を作らずに、会話することはできますか。
そういう問題でもあるんですよ。どこからその会話を始めればいいのか。これが非常に難しい問題なんですよ。
固定観念を捨て去ることが必要ですし、会話を重ねて争わないと一緒になれない」

中尾伸治

「病にかかった場合、普通だったら家族が守ってくれると思うんですよ。ハンセン病ではその家族からも『近寄るな』とも言われるわけです。
母親に『犯罪者であった方がよかったな』と言われたのでなぜだと聞くと『犯罪者は刑が終わったら家に帰ってくれるもんな』と言われたこともあったんですよ。
ハンセン病はそういうことを言わせるような状況に追いやってしまうんです。
私の家族は母親と兄と私の3人です。父親は小さいときに亡くなったので、顔も知りません。
ここ(愛生園)に入ったら名前を変えなくちゃいけない、本籍から自分の名前を消さなきゃいけない、そういうことを教えられました。
ですので兄に相談しましたら、『2人しか兄弟いないんだから、そんないらん事するな』と怒られまして。
私はそのまま名前も変えず、籍も抜かず生きてきました。
その兄が結婚して子供ができたときに、『子供が大きくなるまで(故郷に)帰らないでくれ』と言われたんです。
私が病気になったときに名前も何も変えんでもええと言っていた兄が、やはり家族というものを守るために『帰ってくるな』というようなことを言わなくてならなかった。
そういう時代がずっと続いていたということ、しかもつい最近までそういう時代だったということですね」

中尾からはそのほかにも差別をめぐるいくつかの実体験が語られた。その体験は幼少時代だけでなく、つい最近のものまで含まれる。
ハンセン病が完全に治る病気になってもなお、差別は続いているのだ。
中尾の話を受けて堀はこう語る。

堀 潤

「私は2年前に各国の分断の現場を描いた『わたしは分断を許さない』というドキュメンタリー映画を上梓しました。
私自身はその国や経済システム、国家が招く分断はもちろんあるものの、結局それを深めているのは私なんだとも思うんですね。
分断について薄々と知りながらも目をそらしたことによって、もしくはその固定観念によって私自身が分断に加担してきたとも思うんです」

自分たちのなかに生み出されてしまう差別意識とそこから生まれる分断を、それでも私たちは乗り越えていかなくてはならない。
そのためには何が必要なのだろうか。
実践者である和田はこう語る。

和田夏実

「私は通訳なので、例えば苦手な人の言葉でも全肯定して通訳しなきゃいけないときがあるんですね。
そういうときに、子供の時代にやっていた名前のない遊びについて話を聞くんです。
そうすると、今のその人はどうしても好きになれなくても、3歳のときのその人は愛せたりする。
なぜこの人がこういうことを思うようになったのか、何の力がそうさせたのか想像できるようになれば、社会のどこを変えればいいのか見えてくるんじゃないかと思うんですよ。
ときに拒絶したくなることもあるんですけど、嫌いな部分とは違う『その人らしさ』を探すこともまた必要なのかなと思います」

差別する者を憎むのではなく、差別を生み出した社会の構造を見つめ、改善点を探る。
和田同様、実践者である志村真介・志村季世恵もこう語る。

志村真介

「もしもこの目で実際に何かを見ることで対話が閉じてしまうのであれば、視覚自体を一度閉じてみることも必要だと思うんですね。
人というのは、大切な話を聞いたり、音楽を聞いたり、あるいは祈るとき、自然に目を閉じると思います。
そういうふうに目の前の情報を引き算するなかで、中尾さんの人生から自分たちが受け取れるものがあるはずです。
自分たちが聞き、生身で出会い、そして継承していく方法を考えなくてはいけないと思うんですね。
その一方でそれぞれの人生は限られていますから、その方の命がなくなったとしても、テクノロジーを使いながらその人と対話するような試みが可能だと思うんです」

志村季世恵

「私たちは分断の歴史を忘れちゃいけないし、後世にも伝えるべきだと思うんですね。
差別や恐怖というのは誰もが持ってしまっているものだけど、どうやってそれを抑え、違ったものに変えることができるのか。
そのやり方について考え続けないといけないですよね」

対話の最後は中尾の言葉で締めくくられた。

中尾伸治

「何度も言いますけども、偏見や差別はそのまま残っています。
自治会で活動するなかでいろんな啓発活動をやっておりますけども、小中学生のみなさんには『障害者の人たちはまだまだ社会では偏見や差別の対象になっているんだよ。そういう人たちに手を差し伸べれるような人になってほしい』ということを話しています。
長島というこの島を残し、みなさん方の勉強の場所にしてほしいと思って活動しております。
これからもみなさん方のご声援・ご支援をお願いしたいと思います。
今日はありがとうございました」

当事者ではない者がハンセン病について語ることは、いくらかの勇気を必要とする。
入所者の生涯を考えると浅はかな言葉を飲み込まざるを得ないし、「偏見や差別はよくない」という決まりきった言葉に落ち着きかねない。
だが、このパネルディスカッションはさまざまな課題について語るとともに、当事者以外の者がハンセン病をどのように語ることができるのかという問いかけでもあった。
差別や断絶について自分たちの言葉でどう話すことができるのか。史実をなぞるだけでなく、現代社会において分断についてどう意識し、どのように行動することができるのか。
そのうえで言葉にし、対話すること。その難しさに改めて向き合うことでしか、過去を超えていくことはできない。
パネルディスカッションの参加者たちはそうした課題について思考し、実践してきた。
だが、「自分たちの言葉でどう語ることができるのか」という問いは、この座談会の観覧者である私たちにも向けられているのだ。
座談会最後の林田のまとめが本稿の結論ともなるだろう。

林田暢明

「私は大学院で対話について教えているんですが、第一講の一番最初にこういうことを話すんです。 『対話とは何のために行われるのかというと、傍観者を関与者に変える。関与者を参加者に変える。参加者を当事者に変える。最終的には当事者になるというのが対話の目的だ』と。
今日一日で答えは出ないんですが、何らかの方向はあったと思います。
なので、これをイヴェントの終わりではなくて、まさにスタートとして今後対話を続けていければと思います。
そしてここにいる参加者がやがては当事者になり、そしてまた渦を巻き起こして他の関与者・参加者を巻き込んでいくということが、『橋をかける』ということに繋がると思います」

【おわります】