1977年兵庫県生まれ。
NPO法人8bitNews代表理事
株式会社GARDEN代表。
立教大学文学部ドイツ文学科卒業後、2001年NHK入局。「ニュースウォッチ9」リポーター「Bizスポ」キャスター等、報道番組を担当。2012年、市民ニュースサイト「8bitNews」を立ち上げ、2013年4月1日付でNHKを退局。
現在は、TOKYO MX「モーニングFLAG」のMCをはじめ、AbemaTV「Abema Prime」、読売テレビ「かんさい情報ネットten.」や「ウェークアップ」などに出演し、国内外の取材や執筆など多岐に渡り活動中。
淑徳大学人文学部客員教授。
「Forbes Japan」オフィシャルコラムニスト。2019年から、早稲田大学グローバル科学知融合研究所招聘研究員に就任し、SDGsフロンティアラボで官民の枠を超えたイベントや情報発信を企画している。
2020年、自身で監督、出演、制作を行った映画「わたしは分断を許さない」を公開。
人や場所の記憶を受け取り伝える方法はひとつではないし、
特定の誰かが伝えていく必要もない。
受け取ったその人が自身の内面の世界に波紋を広げていった先に「継承」という行為が現れてくるのではないでしょうか。
これまで大きな主語で語ってこられた数々のこと、小さく小さく、個々の物語にしたときに見えてくる何かがあるのかもしれません。
長島から生まれる様々な対話によって、自分と異なる他者に触れる。
まだ知らない私自身を発見する。尊重という行為を知る。
そうして、新しい世界へ橋が架かっていくと私たちは信じています。
大切なことは、目に見えるとは限らないし、
聴こえてくるものでもないかもしれない。
はたまた、自分の輪郭さえ失うほどの闇の中で、
見つかるかもしれない。
国立療養所 長島愛生園は2030年に100周年を迎えます。
幾重にも重なった歴史を自身の身体を使って紐解き、
足元深く、内面にある新しい感覚を呼び覚ます。
ひらかれた長島から心に橋を架け渡します。
パネルディスカッション
Panel Discussion
ジャーナリスト
NPO法人8bitNews代表理事
堀 潤
HORI Jun
ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパン
代表
志村真介
SHIMURA Shinsuke
一般社団法人ダイアローグ・ジャパン・
ソサエティ 代表理事
志村季世恵
SHIMURA Kiyoe
東京大学大学院 総合文化研究科 研究員
和田夏実
WADA Natsumi
長島愛生園自治会 会長
中尾伸治
NAKAO Shinji
長島愛生園 園長
山本典良
YAMADA Noriyoshi
長島愛生園 学芸員
田村朋久
TAMURA Tomohisa
Moderator
モデレーター
北九州市立大学ビジネススクール
特任教授/TAO CAFE 代表
林田暢明
HAYASHIDA Nobuaki
ジャーナリスト NPO法人8bitNews代表理事
堀 潤
HORI Jun
長島愛生園入所者自治会 会長
中尾伸治
NAKAO Shinji
1934年奈良県生まれ。
13歳のときにハンセン病に罹患していることが明らかになり、1948年、長島愛生園に入所。2011年から長島愛生園入所者自治会会長。
ハンセン病の語り部として、小中学校などを中心に各地で講演や交流活動を行なってている。
また現在、長島にあるふたつの国立療養所、長島愛生園と邑久光明園、および瀬戸内市が中心となり推進する「ユネスコ世界文化遺産」と「ユネスコ世界の記憶」ふたつの世界遺産登録を目指す活動も精力的に行っている。
国立療養所長島愛生園 園長
山本典良
YAMAMOTO Noriyoshi
1963年岡山県生まれ。
岡山大学医学部、同大学院医学研究科博士課程卒業 医学博士。
外科専門医、日本外科学会指導医、(臨床研修指導者養成課程講習会修了、プログラム責任者養成講習会修了、JATEC コース修了)
長島愛生園歴史館 主任学芸員
田村朋久
TAMURA Tomohisa
1999年福山大学経済学部卒。
2001年より長島愛生園勤務。2003年、長島愛生園歴史館の立上げに従事。同年、佛教大学博物館学芸員課程終了。
年間1万人以上の来館者に対しハンセン病問題の解説を行うとともに、年間30本以上、各地で講演活動も行っている。
2008年、岡山南ロータリークラブより職業奉仕賞受賞。
2010年4月より公益財団法人日本科学技術振興財団に移籍、2016年4月より公益財団法人日本財団に移籍、2019年より笹川保健財団に移籍、長島愛生園歴史館での事業を継続している。
長島愛生園歴史館主任学芸員。長島愛生園歴史館事務局責任者。長島愛生園附属看護学校非常勤講師。大手前大学非常勤講師。公益財団法人長濤会評議員。NPO法人ハンセン病療養所世界遺産登録推進協議会ロードマップ委員長
ダイアログ・イン・ザ・ ダーク・ジャパン 代表
志村真介
SHIMURA Shinsuke
1962年生まれ。関西学院大学商学部卒。コンサルティングファームフェロー等を経て1999年からダイアログ・イン・ザ・ダークの日本開催を主宰。
1993年日本経済新聞の記事で「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」と出会う。
感銘を受け発案者ハイネッケに手紙を書き日本開催の承諾を得る。2020年8月、東京・竹芝「アトレ竹芝」内にダイアログ・ミュージアム「対話の森」をオープン。
著書に『暗闇から世界が変わる ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパンの挑戦 』(講談社現代新書)
一般社団法人ダイアローグ・ ジャパン・ソサエティ 代表理事
志村季世恵
SHIMURA Kiyoe
1962年生まれ。
心にトラブルを抱える人、子どもや育児に苦しみを抱える女性をカウンセリング。クライアントの数は延べ4万人を超える。
1999年からはダイアログ・イン・ザ・ダークの活動に携わり、発案者アンドレアス・ハイネッケ博士から暗闇の中のコンテンツを世界で唯一作ることを任せられている。活動を通し、多様性への理解と現代社会に対話の必要性を伝えている。
著書に『さよならの先』(講談社文庫)、『いのちのバトン』(講談社文庫)、『大人のための幸せレッスン』(集英社新書)など。
東京大学大学院 総合文化研究科 研究員
和田夏実
WADA Natsumi
ろう者の両親のもとで手話を第一言語として育ち,大学進学時にあらためて手で表現することの可能性に惹かれる。
視覚身体言語の研究、様々な身体性の方々との協働から感覚がもつメディアの可能性について模索している。
東京大学大学院 先端表現情報学 博士課程在籍。同大学 総合文化研究科 研究員。2016年手話通訳士資格取得。
北九州市立大学ビジネススクール 特任教授/TAO CAFE 代表
林田暢明
HAYASHIDA Nobuaki
1977年生まれ。福岡県北九州市出身。
日本銀行、政策シンクタンクを経て2005年、福岡にTAO CAFEをを創設。
2011年からは東京と福岡の2拠点居住を実践しながら、飲食店を地域の核とした活性化や人材育成に取り組むモデルを各地でサポートしているほか、ベトナム・ホーチミン市にもUTAKATA BARをオープンするなど活動を展開。
近年では、ファシリテーションを活用した地域づくりと教育分野に注力しており、角川ドワンゴ学園N高等学校顧問、北九州市立大学ビジネススクール特任教授として教鞭も執る。
TEXT:大石 始
2組の基調講演に続き、ジャーナリストの堀潤の司会によるパネルディスカッションが行われた。
「あらたな対話で継承をひらき、橋を架けていく」ために私たちは何ができるのだろうか。
7年前から長島愛生園で園長を務める山本典良はこう話す。
山本典良
「今ではハンセン病自体治る病気になって、後遺症を残さずに治るようになりました。今の療養所には、らい菌という菌を持っている方はひとりもいらっしゃいません。
ただ、今後入所者がゼロになった時点で、国立療養所としての長島愛生園も終わりになります。
じゃあ、そのまま長島愛生園が終わっていいのか、園長になって以降ずっと考えてるんですね。
ハンセン病のことをどのように伝えていくべきか。それを今から考えていきたいなと思っています」
長島愛生園学芸員の田村朋久からは継承についての具体的な取り組みについて語られた。
そのひとつが、入所者に代わってハンセン病の歴史や入所者の体験を学芸員が話す継承講話だ。
田村朋久
「私たちは入所者個人の生きてきた足跡をどのような形で引き継いでいくことができるのか、ひとつの課題として考えてきました。
広島ではボランティアの方が被爆者の方々の人生を聞き取り、それをまたボランティアの方が伝える継承講話が行われているんですが、愛生園でもそうした取り組みを進めています。
入所者の方々は療養所に入ってこられるまでにさまざまな差別を受けてきたわけですね。
多くの方々が周囲の目・社会の目を恐れてきた背景がある。
今回のコロナ禍においても、仮に感染したときに社会・地域の目を恐れるという、ハンセン病と同じ構造が繰り返されています。
障害者や感染症の患者さんとも社会全体として共に生きていく。
ハンセン病の問題をきっかけのひとつにして、そういった社会を後世の人たちに伝えていきたいと考えています」
田村学芸員が話すように、社会の分断が急激に進むコロナ禍において、ハンセン病の事例は多くのことを私たちに伝えてくれる。
堀も「コロナの当事者になってみて初めて分断というものを身近に感じた方も少なくなかったと思うんですよね」と話したうえで、こう続ける。
堀 潤
「社会の中で『あちら側とこちら側』が分けられてしまい、声も届かなければ聞く耳を持ってもらえない。
そういうことがコロナ以前からいくらでもあったわけですね。
そうした分断に対していかに私たち自身が無関心であったか、もう一度見つめ直す機会にもなっていると思うんです」
無関心をどう乗り越えていくことができるのか。志村真介と志村季世恵はそうした問いに対してこう答える。
志村真介
「毎日毎日悲惨な映像を見てるともういいやって思ってしまいがちですよね。情報過多になってしまい、感性が落ちてしまう。なので、対等な対話をする準備段階として、自分の感性を柔らかくすることが必要だと思います」
志村季世恵
「目や耳で情報を知るのと『出会い』って違うんですよね。出会いのチャンスを作っていくのかが大切なんじゃないかなとも思います。たまたま私の義理の姉がウクライナ人なんですが、その姉が考えていることはニュースで伝えられていることとやっぱり違うんですね。いろんな人と付き合うことが大事なんじゃないかと思います」
体験することの意義について、堀と和田はこう語る。
堀 潤
「数年前、愛生園の宿泊施設に泊めていただいたとき、夜の風の音とか、夜の島の雰囲気を体感したんですね。
そのときの記憶のほうが、これまでの取材を通じて知った情報を超えていくような感覚があったんですね。
同じ場所にいることの価値っていうのはすごくあると思うんですよ」 和田夏実 「私は(ろう者が)自分の父と母というすごく近いところにいたので、共に共闘していくチームみたいな感じがあるんですね。
でも、一歩引いてみて、日常のなかで障害者と出会う機会があるかというと、学校の授業や講演会を聞くような形でしかない。
実際に出会うことによって自分の世界が一変するような感覚があると思いますし、そこにはまだまだ開拓の余地があるんじゃないかなとも思います」
体験の重要性が語られる一方で、山本園長と中尾会長からは対話の難しさが語られた。ふたりの生々しい証言からパネルディスカッションはもう一歩踏み込んだものへと展開されていった。
山本典良
「対話をすることによって、お互いがお互いを知ることができます。ただ、対話をすれば衝突が生まれます。その衝突をどのように解決していくか、ハンセン病の歴史から学べることはあると思います。
かつてのハンセン病は目に見えて障害が残るんで、江戸時代より前は自宅の奥座敷に引き込まれたり、自分自身も出て行かないまま一生を終えていく人も多かったんです。
その後明治に入ってから互いに対話をすればよかったんですが、ハンセン病が治らない病気だった時代の患者の写真を見たうえで、本当に会話をできますか。
自分の心に壁を作らずに、会話することはできますか。
そういう問題でもあるんですよ。どこからその会話を始めればいいのか。これが非常に難しい問題なんですよ。
固定観念を捨て去ることが必要ですし、会話を重ねて争わないと一緒になれない」
中尾伸治
「病にかかった場合、普通だったら家族が守ってくれると思うんですよ。ハンセン病ではその家族からも『近寄るな』とも言われるわけです。
母親に『犯罪者であった方がよかったな』と言われたのでなぜだと聞くと『犯罪者は刑が終わったら家に帰ってくれるもんな』と言われたこともあったんですよ。
ハンセン病はそういうことを言わせるような状況に追いやってしまうんです。
私の家族は母親と兄と私の3人です。父親は小さいときに亡くなったので、顔も知りません。
ここ(愛生園)に入ったら名前を変えなくちゃいけない、本籍から自分の名前を消さなきゃいけない、そういうことを教えられました。
ですので兄に相談しましたら、『2人しか兄弟いないんだから、そんないらん事するな』と怒られまして。
私はそのまま名前も変えず、籍も抜かず生きてきました。
その兄が結婚して子供ができたときに、『子供が大きくなるまで(故郷に)帰らないでくれ』と言われたんです。
私が病気になったときに名前も何も変えんでもええと言っていた兄が、やはり家族というものを守るために『帰ってくるな』というようなことを言わなくてならなかった。
そういう時代がずっと続いていたということ、しかもつい最近までそういう時代だったということですね」
中尾からはそのほかにも差別をめぐるいくつかの実体験が語られた。その体験は幼少時代だけでなく、つい最近のものまで含まれる。
ハンセン病が完全に治る病気になってもなお、差別は続いているのだ。
中尾の話を受けて堀はこう語る。
堀 潤
「私は2年前に各国の分断の現場を描いた『わたしは分断を許さない』というドキュメンタリー映画を上梓しました。
私自身はその国や経済システム、国家が招く分断はもちろんあるものの、結局それを深めているのは私なんだとも思うんですね。
分断について薄々と知りながらも目をそらしたことによって、もしくはその固定観念によって私自身が分断に加担してきたとも思うんです」
自分たちのなかに生み出されてしまう差別意識とそこから生まれる分断を、それでも私たちは乗り越えていかなくてはならない。
そのためには何が必要なのだろうか。
実践者である和田はこう語る。
和田夏実
「私は通訳なので、例えば苦手な人の言葉でも全肯定して通訳しなきゃいけないときがあるんですね。
そういうときに、子供の時代にやっていた名前のない遊びについて話を聞くんです。
そうすると、今のその人はどうしても好きになれなくても、3歳のときのその人は愛せたりする。
なぜこの人がこういうことを思うようになったのか、何の力がそうさせたのか想像できるようになれば、社会のどこを変えればいいのか見えてくるんじゃないかと思うんですよ。
ときに拒絶したくなることもあるんですけど、嫌いな部分とは違う『その人らしさ』を探すこともまた必要なのかなと思います」
差別する者を憎むのではなく、差別を生み出した社会の構造を見つめ、改善点を探る。
和田同様、実践者である志村真介・志村季世恵もこう語る。
志村真介
「もしもこの目で実際に何かを見ることで対話が閉じてしまうのであれば、視覚自体を一度閉じてみることも必要だと思うんですね。
人というのは、大切な話を聞いたり、音楽を聞いたり、あるいは祈るとき、自然に目を閉じると思います。
そういうふうに目の前の情報を引き算するなかで、中尾さんの人生から自分たちが受け取れるものがあるはずです。
自分たちが聞き、生身で出会い、そして継承していく方法を考えなくてはいけないと思うんですね。
その一方でそれぞれの人生は限られていますから、その方の命がなくなったとしても、テクノロジーを使いながらその人と対話するような試みが可能だと思うんです」
志村季世恵
「私たちは分断の歴史を忘れちゃいけないし、後世にも伝えるべきだと思うんですね。
差別や恐怖というのは誰もが持ってしまっているものだけど、どうやってそれを抑え、違ったものに変えることができるのか。
そのやり方について考え続けないといけないですよね」
対話の最後は中尾の言葉で締めくくられた。
中尾伸治
「何度も言いますけども、偏見や差別はそのまま残っています。
自治会で活動するなかでいろんな啓発活動をやっておりますけども、小中学生のみなさんには『障害者の人たちはまだまだ社会では偏見や差別の対象になっているんだよ。そういう人たちに手を差し伸べれるような人になってほしい』ということを話しています。
長島というこの島を残し、みなさん方の勉強の場所にしてほしいと思って活動しております。
これからもみなさん方のご声援・ご支援をお願いしたいと思います。
今日はありがとうございました」
当事者ではない者がハンセン病について語ることは、いくらかの勇気を必要とする。
入所者の生涯を考えると浅はかな言葉を飲み込まざるを得ないし、「偏見や差別はよくない」という決まりきった言葉に落ち着きかねない。
だが、このパネルディスカッションはさまざまな課題について語るとともに、当事者以外の者がハンセン病をどのように語ることができるのかという問いかけでもあった。
差別や断絶について自分たちの言葉でどう話すことができるのか。史実をなぞるだけでなく、現代社会において分断についてどう意識し、どのように行動することができるのか。
そのうえで言葉にし、対話すること。その難しさに改めて向き合うことでしか、過去を超えていくことはできない。
パネルディスカッションの参加者たちはそうした課題について思考し、実践してきた。
だが、「自分たちの言葉でどう語ることができるのか」という問いは、この座談会の観覧者である私たちにも向けられているのだ。
座談会最後の林田のまとめが本稿の結論ともなるだろう。
林田暢明
「私は大学院で対話について教えているんですが、第一講の一番最初にこういうことを話すんです。
『対話とは何のために行われるのかというと、傍観者を関与者に変える。関与者を参加者に変える。参加者を当事者に変える。最終的には当事者になるというのが対話の目的だ』と。
今日一日で答えは出ないんですが、何らかの方向はあったと思います。
なので、これをイヴェントの終わりではなくて、まさにスタートとして今後対話を続けていければと思います。
そしてここにいる参加者がやがては当事者になり、そしてまた渦を巻き起こして他の関与者・参加者を巻き込んでいくということが、『橋をかける』ということに繋がると思います」
【おわります】