私はいつの頃からか「ハッピーエンドの裏側」にとても興味がいくようになった。主人公とヒロインが色んな物語を紡いで最後には一緒になる、そんな素晴らしい結末の一方で、涙したり、どうしようもないほどに胸を痛めている人がいる。フィクションみたいにスピンオフで物語の脇役同士が都合よくひっつけばいいけど、人の心はそんなに単純じゃない。最近のドラマは最終回でも,、変わらず日常が続いてくものが多い気がするけど、そんなもんなんだよなあと納得したりする。ただ、やっぱり劇的なハッピーエンドには小さな頃からの絶えない憧れがあり、私は物語の主人公になれるのかしら、なんてついつい考え込んでしまう。

 

 つまり、世の中にはひとつの方向からだけじゃ語れないことが山のようにある、と年を重ねるほどにそう受け止めるようになった。だけど世間はひとまずの解決を図るために、右か左か、善か悪か、白か黒か、無罪か有罪か、あれやこれやと判断をつけていこうとする。そして、その中で生活する多くの人は「そうなのかも」ってなんとなくそれを鵜呑みにして、自分に見えるだけの周りを気にかけながら暮らしているんじゃないだろうか。私もその一人だと思う。

だけど、それは悪だと言われる物語を因数分解していった時、見えなかった事実を知った時、その物語の見え方は変わっていく。あれれ?本当にそれは悪い事だったのかな?とさっきまで決めつけていた自分を疑うようになる。新たな事実に向き合おうとする人、いやいや、悪いものは悪いんだと貫く人、そもそもあまり興味がない人、色んなタイプが社会で複雑に絡み合い、世間は本来もっと細やかだ。

誰しも自分が中心になった物語を生きているのだからしょうがない気もするけど、自分を主人公にするあまり、知らないうちに誰かを苦しめていることには気づかなかったり、知らないふりをしようとしてしまう。理解して欲しいのに、互いの物語の言語が違いすぎて平行線の日々を過ごしたり、自分だけが悲しいような気持ちになって、よそのことなど見えなくなったりして、他人と過ごすのにやりきれない気持ちが胸に生まれる。そんなことが邪魔をして物語の向こう側を覗くことはとっても難しい。

 

 さざなみハウスをオープンさせて出会った人たちは「ハンセン病」という物語を生きて、自分と向き合い続けている。病に侵された人はもちろん、その治療に情熱を注いできた人たち、それぞれに関わってきた人たちも。私は長島に来て日本のハンセン病やその隔離の歴史を知った。現在は国が隔離政策の誤りを認めている。その事実に胸をなでおろす一方で、その裏側に潜んでいたびっくりするほどたくさんの物語を知り、主人公が変われば物語もうんと変わってくることに驚いている。自分の言葉では表しがたいけど、抱く感情がコロコロ変わってしまうのだ。

そんなことを考えながらカウンターに立つ。だけど、そこで出会う日常はとてもシンプルで微笑ましい。私はただ、それぞれの物語を想像して寄り添ってみるだけである。世の中では、ひとつにくくられているハンセン病だった人たちがここではなんと細やかに、そしてありのままにみえるのだろう。ここから生まれるなんでもないケのような毎日が私に絶え間無く問いを与え続けてくれている。だからといって、そこから何かが導きだされるわけではないけれど、ただ愉快な物語をここに書き留めていきたいなと思う。

 小さな物語にロマンがつまったポールオースターのナショナルストーリープロジェクトみたいに、たくさんの物語がいつかここに集うといいなあ。

posted : 2020.04.19
喫茶店の日々 長島を歩く さざ波立つ人たち