引き寄せの法則

喫茶店の日々

昨年の9月にオープンしてから馴染みのお客さんがさざなみにもできた。大体の好みは把握してきたし、喫茶店定番の「いつもの」を聞く頻度が増えてきたと思う。島の外から来るお客さんもいるし、島内の住まいから自分の車や園内のタクシーで来たり、徒歩やセニアカー、職員さんに車椅子を押してきてもらったり、みんな各自の手段でやってくる。長島の平均年齢は86歳を超えていて、愛生園の人口は140名を切っている。限界集落みたいなもので、ここの自治会からも「役員の高齢化により~」なんて言葉をよく聞く。だから、センターと呼ばれる介護施設のような住まいも診療棟に直結していて、現在も新しいセンターが建設されたばかり。療養所の機能はどんどんコンパクトになるよう準備されている。

さざなみハウスはその場所から少し離れたところにあり、診療棟に移転したかつての福祉課があった場所にある。外を出たところには大きな旧診療棟がガランとして建物だけが存在として残っている。そんなわけだから、診療棟で治療やリハビリをする入所者からすれば、ここは「遠い」のだ。「診療棟の中にあったらなあ!」を何度聞いたことか。だから店を始めて2ヶ月くらいした頃、窓の向こうから連なるセニヤカーのレディース集団が見えて、それがそのままお店に来てくれた時は嬉しかった。

 

背広にスカーフとハット、全身をブラウンで纏ったI上さんが初めてお客さんとしてやってきたのは去年の秋口だっただろうか。なんて紳士な人が来たんだろうとドキドキした。誰もいない朝の時間に珈琲の注文が入る。お砂糖をちょびっと、病気のおかげで顔にマヒがあるからぬるめで、と。私は熱々に淹れた珈琲へスプーンに半分くらいの砂糖をかき混ぜて、何度もサーバーやマグカップに移し替えて冷え性の両手でぎゅうっとカップを握って冷ました。I上さんはぬるめの珈琲をすすりながら、自分のことをぽつり、ぽつりと語り始める。そしてそのまま時間の限り、半生ダイジェストをしゃべり倒していったのだった。彼が帰った後、私は思わずにやける。寡黙な紳士かと思いきや、出るわ出るわ、I上さんはおしゃべり大好き人間だった。

それ以来、時間を見つけてはセニヤカーで足を運んでくれるようになった。自分が作った写真集や友人が書いた歌謡曲のCDを持ってきてくれたり、色んなことに精通しているI上さんはとにかく話題が豊富にある。ある時は、自分が彫った般若の面を持ってこようとして落としてツノが折れたという。(失礼ながらも彼のサービス精神につい笑ってしまうのだけど、この話はあまりに悲劇だったのでいつかお宅へ伺うと約束した。まだ行けてないけど。)

 

I上さんには不思議なジンクスがある。彼が来るときは店がいつもなぜか途端に忙しくなり、実はきちんと話を聞けたのは最初の一回だけなのだ。I上さんがカウンターに座って話し始めると、皮肉なことにめちゃくちゃお客さんが現れる。私は珈琲豆を挽く音にかき消される彼の声を必死に聞く。キッチンに引っ込んでもなお話が続くから、相槌のタイミングが大変だ。だから自分の知人がいる時はさりげなく彼とマッチングさせ、手元に写真集を置いていくことにしている。そしてI上さんが帰る頃、店の注文もようやく落ち着く。ジンクスのことを伝えると「私は物語を引き寄せる力を持ってるから。」とまんざらでもない。

最近はさざなみに奥さんと介護員さんと3人で来るようになり、加えてタイムリミットが設けられるようになった。I上さんは奥さんが脳性マヒになってからずっと世話をしていたけど、自分のマヒもひどくなって一般舎からセンターに移ったらしい。「腐れ縁だ。」と言うけれど、配偶者と一緒に来てくれるようになるのは嬉しい。奥さんは口数が少ない。しゃべり続けるI上さんを横目でじろーっと見つめながら、カフェオレとチーズケーキを黙々と食べる。I上さんの珈琲は全く減らない。ひと息で食べきってしまう奥さんは待ちきれずシビレを切らす。そして場の空気を一瞬にして自分のものにしてしまう一言を放つのだ。「おとーさん、かーえりーましょー。」「いや、まだ珈琲が残っとるがな。」「おとーさん、かーえりーましょー。」こうなってしまったら奥さんのペース、I上さんはみんなに諭されて会計を済ます。いやはや、この二人の夫婦感は素晴らしい。初めてこのやり取りに出くわした時、私はおかしくてたまらなかった。以来、I上さんは朝の散歩の時間をぬってこっそり一人で来たりする。

ボイラーマンの資格を取って社会復帰を意気込んだけど、病気のことを書いたらそれだけで断られたことがあるI上さん。落ち込んだ時に勧められたのが写真でそれ以来、写真の「マジックショー」を追い求めているのだという。そんな彼のお話は聞いただけでも山のようにある。それはまた、ここでおいおい。

posted : 2020.05.08
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