2020.8.29.sat【歩く学校】

さざなみ 歩く学校 「社会で揺らめく人の感情」 
1回目は、対話の時間。 てつがくやさんの松川えりさん、愛生園自治会長の中尾伸治さん、歴史館学芸員の田村朋久さん、そしてさざなみ店主の鑓屋の4人で、コロナウィルスやハンセン病、世の中の流れを切り口にしながら、人の感情について対話をしてみます。
日時:8月29日(土)
会場:喫茶さざなみハウス 
出演: てつがくやさん 松川えり
愛生園自治会長 中尾伸治
歴史館学芸員 田村朋久
喫茶店主 鑓屋翔子
松川えりprofile▽▽
1979年、大阪府枚方市生まれ。 大阪大学文学研究科博士後期課程 単位取得退学。 . 学生時代より哲学カフェの活動を始め、2005年、大阪大学臨床哲学研究室のメンバーを中心に、哲学対話を実践・サポートする団体カフェフィロを設立。2014年4月より2016年3月まで代表を務める。(現在は副代表) ​大阪大学コミュニケーションデザイン・センター特任研究員を経て、フリーランスのてつがくやさん(哲学プラクティショナー)に。岡山を拠点に、カフェ、公民館、福祉施設、病院、学校などで哲学カフェや対話ワークショップの企画・進行を行う。共著として、『哲学カフェのつくりかた』(大阪大学出版会)、『この世界のしくみ 子どもの哲学2』(毎日新聞出版)など。​毎日小学生新聞にて、「てつがくカフェ」連載中。

会長の「今の人間が弱くなった」という一言が印象的でした。

 

以下、書き起こし

オープニング

鑓屋:さざなみ 歩く学校第一回ということで、ゲストに三人の方と対話をしていけたらと思っています。テーマは「社会で揺らめく人の感情」なんですけど、簡単にメンバーの紹介をさせてもらおうと思います。
まず、私のお隣が愛生園入所者自治会会長の中尾伸治さんです。
中尾:愛生園自治会の中尾です。よろしくお願いします。
そのお隣が愛生園歴史館の学芸員をされている田村さんです。
田村:長島愛生園歴史館で学芸員をしております田村です。どうぞよろしくお願いします。
今回、対話のお手伝いをしてもらおうとお声がけしたてつがくやさんの松川さんです。
松川:岡山市内を中心にてつがくやさんをしている松川です。よろしくお願いします。

というわけで、このメンバーでやっていきたいなあと思うのですが、松川さんに早速一緒にまじってもらいながら進めていけたらなあと思います。お願いします。笑

松川:では、鑓屋さんにまず、こうやって集まって一緒に話そうって思った動機みたいなものをちょっと聞きたいなって思います。

鑓屋:はい、まず発端は、コロナのことがきっかけと、個人的にSNSの誹謗中傷の記事とかもすごく気になっていて、なんていうか、ここ(長島)で昔ハンセン病の隔離の政策だったり、そういう歴史があったりしたり、で、実際の入所者の方たちが外で差別を受けていたとか、そういう話を聞いていて(会長の着信音流れる)笑 すごい優雅な。。。笑

松川:今、突然BGMが入ったけれども。笑

鑓屋:で、まあ、ここにいる人たちはそういうことに対して、正しい知識を持ってお互いの理解を深めるよう色々と取り組みをされてるわけなんですけど、だけど世の中って時代は進んですごく豊かになってるのに、なんでまた同じようなことを繰り返しちゃうんだろうなっていうのが最初のきっかけで、会長と田村さんと松川さんにお声かけをしたって感じです。

松川:ありがとうございます。私はその鑓屋さんの誘いに乗っかって、長島愛生園の見学ツアーに友達と参加させてもらったことがあって、で、その時にもうちょっと中尾さんや田村さんに何かを聞きたいんだけど、何を聞きたいのかわからないってことがあって、ずっとそこで留まってたんですけど、鑓屋さんのそのお誘いを聞いて「よっしゃ」と思って、やってきました。その時に一応一通り田村さんと中尾さんにハンセン病のこともツアーの中で教えてもらったんですけど、改めて、私はちょっと説明できないので、おふたりの力を借りて、長島愛生園のこととかハンセン病のことをあまりよくしらないとか、もしかしたら初めて聞いたという方もいらっしゃるかもしれないと思うので、まず田村さんのほうからハンセン病ってどういう病気でどういう歴史があるのかってちょっとお聞きしてもいいですか?

ハンセン病について

田村:はい、それでは少しお話させていただくんですけど、ここにお越しいただいてる方っていうのは、あらかたご理解いただけてるのかなあと思うんですけど、多分、配信聞かれてる方は初めての方もいらっしゃると思うので、少しかいつまんで。
ハンセン病はもともと「らい病」と呼ばれた病気です。ただ、言葉のイメージがよくないということで、今は発見者の名前からハンセン病と呼ばれています。原因というのはらい菌という菌の感染症なので、一応はうつる病気ですね。菌をたくさん持ってる患者さんと赤ちゃんが接触することでうつるといわれています。で、うつって数年で発病といわれてまして、ほとんどの人はその間に治ってしまうんですが、食べるものがなかったり、衛生状態が悪かったりすると残念ながら発病してしまう、そういった病気です。したがって、今の日本のような国では新たな発症者はほとんどいらっしゃりません。しかし世界的に見れば、今でも開発途上国といわれる国々では大体年間20万人弱の新規の患者さんがでている、そういった病気ですね。発病したらどうしても手や顔、目立つところに症状が出やすい病気です。

松川:どういう症状っていうのを簡単におしえてもらますか?

田村:そうですね、大きくわけてふたつですけど、まずは皮膚に出る症状、斑紋とか赤いまだらの斑点が出てきたりとかですね、あと髪の毛が抜けていったり皮膚症状としてコブが出てくることもありますね。あともうひとつが神経に出る症状で、末梢神経が麻痺します。すると例えば指が動かなくなって筋肉が萎縮してしまってこう曲がったままになってしまったり、あと顔の表情がつくれなくなってしまったり、あと多いのが知覚麻痺といって感覚がなくなってしまう、その他には例えば神経痛が出たりですね、発汗障害が出たり、症状自体は本当に多様な症状があります。今はいいお薬があります。もともとは今から70年くらい前には特効薬が出来たわけですけれども、ここ40年くらいでは飲み薬が出てまして、今は薬を飲めば簡単に治る病気です。したがって現在療養所にいらっしゃる方、全国の皆さんはハンセン病はすでに治った状態、長島愛生園でも今日現在134名の入所者さんが生活していますけども、皆さん病気自体は治っている。私は今年ここに来て20周年ですね。20周年になります。中尾さんがもうちょっと若い頃からお付き合いさせてもらってるんですけども、この20年間でハンセン病の患者さんは見たことがないんですね。もうみんな治ってる。平たく言えば、「ハンセン病の後遺症を持つ障がい者」、そういった方々が年をとられて現在ここで生活しているということなんですね。国の政策ということもちょっとだけふれるんですが、かつてこの国は「らい予防法」という法律をもってハンセン病の患者さんを強制的に療養所に隔離しようとしました。これは1931年にできた法律ですね。また、時を同じくして「無らい県運動」と言ってですね、らいのない県をつくろう、各県がハンセン病の患者をゼロにしようというキャンペーンをやったわけです。まあ、昨今のコロナ禍による社会ってすごく似てるなあと思うんですけど、実際にそういうことをかつてこの国はおこなっております。その時に「ハンセン病ってうつりやすい怖い病気だ」と誤って宣伝してしまったり、またそのような錯覚を与えてしまったりしたわけですね。病気自体は今から70年前に治るようになるわけですけども、隔離の法律がなくなるのは今からおよそ25年前のこと、1996年ですね。まあ、長い間この法律は放置されてしまったわけです。もちろんその背景には差別の問題であったり、法制度を変えることに大きな抵抗を持った閣僚たちの考えがあったり、色々あるわけですけれども、法自体が続いてしまった。したがって一般の人は「ここに(長島)にいる人はまだまだ治ってないんじゃないか」って誤解を持ってしまったわけです。(10:00)1996年にようやく法律がなくなりまして、その2年後、この法律自体が憲法違反じゃないかってことで裁判が起きました。2001年、これがちょうど私が長島愛生園に来た年なんですが、判決がでます。原告の勝訴、国がやってきたハンセン病政策は間違いだったと、国は誤りを認めて謝罪をしました。しかし、その時平均年齢はすでに75歳ですから、もう帰るべき家や家族、絆が断たれてしまった多くの人々は引き続き療養所での生活を余儀なくされて、今でもここにいらっしゃるんですね。で、また昨年も大きな出来事がありました。家族訴訟ということで、入所なさった方のみならず、その家族の方も偏見や差別の目が及んでしまった、その責任が国の政策にあったということで、こちらも裁判の中では原告が勝訴しました。またこちらも国が控訴しないということで判決が確定し、昨年、安倍首相が謝罪をされました。患者さんのみならず、その家族を巻き込む、もっと言えば、そうですね、色んな聞き取りをすれば療養所のスタッフに対してもかつては差別の目が及んでいるといった歴史もあります。まあ、これはそっくりそのまま今の(コロナ禍)状況っていえるのかなあと感じますね。

中尾さんの体験談

松川:ありがとうございます。なんか聞いてよかった。私、忘れてることあった。笑 のと、やっぱり前来た時は何年かまえだったので、今の新型コロナウィルスの状況っていうのがなかったので、ちょっと今改めて聞くと、「あれ?」とか「ん?」って思うところがあったりもして、是非皆さんも、重なるのか、重ならないところもありそうだし、重なるところもありそうだなみたいなことを感じながら聞いていただけると発見があるのかなあって思うんですけど、中尾さんは実際ハンセン病を経験してきて、何歳頃こちらに来たのか、発症したのか。。。

中尾:あの私14歳で、中学2年生の途中でここにきました。当時、昭和23年ですのでまだまだ物資が少ない頃でしたので、非常に生活というんですか、治療もですけど生活も非常に苦しい時代であったということ。そういうことで、治療の方は、タイユシという果物の種からとった油ですけど、それを筋肉注射していた、それしかなかったんですが。さっき田村さんが言われたようにちょうどプロミンという新しい薬が出来て、私が来た頃はちょうど治験が始まったときですね。だから何人か選ばれた人がその薬を打ち出して、毎日やる人、午前午後やる人、グラム数も3グラム、5グラム、6グラムとかそういう具合に色々やったようですけども、人体実験ですね、それをやって完全な無菌者がでた、完全に菌がおらなくなったというのが昭和25年に初代の光田園長が新聞紙上で発表されました。
そういう時代ですので、私が来たときはやはり無らい県運動もそのままですし、それから強制収容もそのままですから、収容するのにもいわゆる特別列車ですね、それで収容されたりという時代でした。しかし先生によっては、もう怖くないんだって形で私の場合は発見してくれた阪大の大西キチオ先生が「愛生園行くときは一緒に行こう」と言ってくれて普通の列車できました。岡山駅からまず、日本食屋さんでご飯を食べて、それから迎えの車が来ないので後楽園で遊んで、それからここへ入りましたんで、途中までは旅行みたいなもんでしたけども、実際長島へ着いたら、上陸するのに患者桟橋、いわゆる回春寮桟橋ですね。あそこに私だけが降りる、後の人たちは職員桟橋の方へ降りるという風にそこから区別が始まった。そこから患者と職員をわける生活が始まったということです。生活のことはまたあとで。

松川:ありがとうございます。お二人に歴史的なことと体験を聞いたんですけど、鑓屋さん、どこから聞きたいですか?どうしようかな。最初にこの企画を最初に提案してくれた時におっしゃってたお二人が新型コロナウィルスとハンセン病の共通点とか違うところをどう感じているかを聞いてみます?

コロナウィルスとハンセン病は似てる?

鑓屋:そうですね、私はコロナウィルスとハンセン病を詳しく知らない、けど受け手として、自分が当事者になっていない立場から見たときに、すごく状況が似てるなあって思って、今回お願いしたんですけど。こないだちょっとお話したときに、そこも実は違うというか、、、。

松川:似てるところも違うところも、鑓屋さんが思ってるよりあった。じゃあそこを田村さんから聞いてみましょうか。田村さんはハンセン病の歴史館で、普段私たちにハンセン病のことを教えてくれているのですが、その中で、お医者さんじゃないけど、ハンセン病と新型コロナウィルスの共通点と相違点ってどういうところにあると思いますか?

田村:そうですね、感染症の専門家ではないので、それはあらかじめことわっておきます。で、そもそも病気の成り立ちというかメカニズム自体全く違うと思います。それはハンセン病に関しては菌だし、コロナウィルスに関してはウィルスですから違うと。それから潜伏期間なんかまったく違いますね。ハンセン病は数年、コロナウィルスは5日くらいですかね?ですからそのあたりも違う。それから症状も全く違いますし、その致死率も全く違います。ですから病気自体を並行して考え共通点を探すのはなかなか難しいのかなと思います。そういった中でどこに共通点があるのかなって考えたときに、一般の方々が病気に対する対応をとる、その対応の取り方っていうのは、おそらく一般の方もごっちゃになってると思うんですけど、よく似てるのかなあとそういった気はします。というのも、先ほどちょっとお話をしたいわゆる無らい県運動ですよね、その状況下が今ひょっとしたら似てるんじゃないかと、そのようにも考えるわけですね。で、確かにハンセン病の隔離政策を進めた時代っていうのは第二次世界大戦前後、特に国から出てくる情報が全てだった時代です。ですからそういった状況の中で誤った情報が流されているというのがハンセン病のメカニズムだと思うんですが、それと違って今は多種多様なメディアがあって、情報の取り方も我々一種一葉ではないと。様々な情報が出てる中で正しい理解をどういった基準で考えるのか。それはまた全く別の問題として難しいなあと思っています。ですから、違う点っていうのは情報の出方が昔と今では全く違うのかなあと思っていますね。あと同じような点っていうのは、我々は、誰しも病気になりたくない。多分、皆さん一緒だと思います。だからその気持ちっていうのは今も昔も一緒だと思うし、そのために、その原因となる人たちからできるだけ距離を置きたいっていう思いは変わらないと思うんですよね。ですから、このあたりは同じ点だといえますね。あと、日本の話ではないんですけど、ある国の話なんですが。そこは今でも年間何万人と患者さんが出てる国です。そこでは、そうしても家族の方が発病したハンセン病の方を隠しちゃうそうなんですね。家族の中からひとり患者さんが出れば、その家族全員が差別の対象となってしまう。そうすればたちまち生活も成り立たなくなるので、患者さん自体の存在を隠してしまう。うちにはそんな人いませんよ、と。

松川:(家族の存在自体が)そんな人いないよってなるわけですね。

田村:で、そこで隠しちゃうわけですね。感染力はさほど強いわけではないといわれてますけど、そうは言っても感染症ですから発症する生活水準っていうのはどうしても貧困層に多いわけで、そういった中で感染を拡げてしまうっていうケースは今でもあるそうなんですよね。そうするとやはり病気になった人を差別、いや排除する。その家族を排除することで感染が逆に拡がっているっていう矛盾に行き着くわけなんですね。これって多分今も同じような状況があるんじゃないかと思うんです。例えば、「ちょっと調子が悪いなあ。熱っぽいなあ、咳がでるなあ、なんかちょっと味もしなくなってきたなあ」、でもここで、じゃあちょっと調子が悪いから病院行こうかってなって、仮にそこでコロナ陽性ですよってなった場合、どうなるんだろうって不安を持つはずなんですね。私の周りでも、大体皆さん言われるのは、職場とか学校で第一号になりたくないなって言われます。

松川:それだけはっていう気持ちがどこかに、自分の県で一人目とか職場で一人目とかは怖い。

田村:やだなって。そうですね。それって多分ふたつ意味合いがあると思うんですね。まずひとつっていうのは、誰かにうつしたらやだなっていう怖さと、あとは差別を受けちゃうんじゃないかって怖さ、排除されるんじゃないかって怖さなんですね。それを隠すことによって、そこで家族内感染が広まったり、周囲の方に逆にうつしてしまったり、そういう危険性があるわけで、そう考えれば今の社会においてコロナの患者さんを排除するってことっていうのは必ずしも自分を守る行動にはならないんじゃないのかなって思うわけです。ですから、最初鑓屋さんの方から、病気に寛容であるべきなんじゃないかって話もあったわけなんですが、やはりそこはwithコロナっていう言い方をしてますけども、病を受け入れ、病気になった人にはちゃんと治療していただくためには、なったあの人は犯罪者だみたいな扱いをするんじゃなくて、ああ大変だったねと思いやれるようなそういった風潮になってほしいなと思います。取り留めなくて申し訳ないんですけど。

松川:ありがとうございます。いくつか違うところと情報の流れ方というか、今は一極集中じゃなくて色んなところから流れてくるっていうことと、私たちも情報の発信者になりうるっていうのも多分含まれていて、共通点として、病気の詳細はいろいろ違うけど感染症ってところは共通なので、そうすると病気になりたくないっていう気持ちの中の感染症特有のなにかがあるのかなあって、そのあたりが一人目になりたくないって気持ちに端的に表れてるなあって思ったんですけど、中尾さんはいかがですか?ご自身の体験から危惧することも含めて、共通点と違いについてどういう風に感じておられますか?

中尾さんが感じるコロナ禍

中尾:今回、コロナウィルスのことは今年の1月の末くらいから始まりましたけど、こんなに早く拡がっていったっていうのは(ハンセン病には)まずないことですね。初めての菌だったということで手の施しようがないと、やはり時代というんですか昔だったら船の時代だったけど、今は飛行機で運んでいる時代だから、世界中へいっぺんに広がったんじゃないかなあと思ってます。それと対応できる薬がないということで不安が先に出たということで、中国の方で一画を閉鎖してしまうとか扱いがひどかったとおもいます。ハンセンの場合はそういうことまではありませんからね。病気がでたらその家だけは消毒されたけど隣近所までにはいかない。そこらへんが大きくちがうところと、もし病気が出た場合、顔に障害がでたり、(私の)手は曲がってますけど、こういう障害がでたり、見えるところに障害が出るもんですから特に薬のない時代はもっとひどいもんでしたから、余計にその恐れというのはあったと思いますけど、それと今のコロナを一緒にされるのはどうも腑に落ちんなと思ってます。私たち、代表をしてますと園長や幹部と相談してますと、やはり入所者134人がひとりも風邪にうつらないようにということ、いわば家族を守るような状態の行動をしてますが、同じ偏見差別を受けてるんじゃないかととらえるのと、私たちが家族を守るような状態にあるということで園では外から来園を少し断っているということなんだから、ハンセンと全く同じような扱いだとは思っていない。今回早く3月初めに報道局が取材に来られたんですが、色んな報道局が来ました。ハンセン病とコロナウィルスの偏見差別について尋ねてこられたんですが、全く違うもんであるということと、同じようにニュースなんかみてたら、隣の人に出ていけと言われたりとか、先日テレビみて驚いたんですが、病気がなおって社会復帰というんですか、復帰しようとしたら元コロナ患者さんだもんなと言われた、この病気(コロナ)の人までがそういうことを言われるというのが、なんで?という気持ちになってます。その病気治ったらすぐ社会復帰、戻るのが普通なんで、それを戻してくれなかったのがハンセン病で、あとの病気は結核だろうが、結核はお友達みたいな病気ですけど、治ると社会復帰できるんですから、そのあと、あの人は結核だったって長いこと言われることはないと思うんですよね。そういうことを今のコロナに言うかな?というそこらへん、人間が弱くなったのかなあと思ったり。その気持ちでこないだもテレビで発言されてる方の言葉で、全く同じようなことが起きてるんだなあと、本当に嫌になったというですね。

松川:中尾さんからみると、全然違うものである。ハンセン病は見えることによる差別があったりとか、治ってからも普通の生活に戻れないといううようなことがあって、一方でコロナはどっちかというと見えない怖さなんですかね。でも、こんなに違うのに、なんでそこは一緒やねんみたいなところが中尾さんのもどかしさというか、疑問が興味深いなと思ったんですけど、鑓屋さんはどうですか?

知ったつもりと人間の余裕なさ

鑓屋:私がまず思ったのは、なんとなく私が漠然としたモヤモヤっとしたことが単純にハンセン病とコロナウィルスを同じようにみてて、それを取り巻く人たちのことに対してなんでなんだろうなーって思ってたんだけど、そう思うこと自体がすごく、私にとっては身近にいる中尾さんとかここで暮らす人たちの「全然違うぞ」っていうところを知らずに、私は言っていたってことに反省というか、そっか全然違うし、もっと考えなきゃっていうか。

松川:なんか教えてもらっててもわかってないっていう。

鑓屋:そう、そういうのがあって、こういうことは私にとって普通の発言でも、それは違うところからみたら誰かを傷つけている言葉だったりするんだなあってことに、中尾会長と以前テレビの取材を受けた時にハンセン病とコロナウィルスは全く違うって言ってるのを聞いて、あ、そうだよなって納得したし、すごく自分を恥じた部分があったりして、でもその一方で当事者の方たちは全く違うし、病気自体も違うんだけど、なんとなくしか知らない周りが、なんで余裕をもって相手をみることができないのかなあっていうのは変わらず疑問として残ったっていうか。受け手側の立場として。

松川:そこはどうなんですかね。中尾さんのもどかしさと通ずるんかな。

中尾:なんかこう自分を守る、これが一生懸命だと思いますね。最初のころにね、隣に出たと、さっそく出ていけとか言うたって報道されてたんですけど、言うとる本人が病気になったときにどないするんじゃろうなって、園内の色んな人とはすぐそんな話になりましたからね。やはり、病気そのものに対してあまりにも過敏すぎるというのか、用心せないかんことは確かなんだけども、あまりにも過敏すぎると思いますね。

松川:こちら(愛生園)でも、居住区の方はコロナの感染があるしばらくはご遠慮くださいってなってて、だから用心はしてるんですよね、中尾さんも。でもそれと過敏すぎるのは別物の感じ?

中尾:どう言ったらいいんかなあ。モヤモヤするなあ。

松川:多分そのモヤモヤが大事な気がして。

中尾:でも人によっては、スカッと割り切れいうのも難しい話やろね。だからハンセンの場合だったら症状が出てきたら、家族が一生懸命隠そうとしたし、療養所に見つかったらすぐお医者さんが県知事に連絡をして入院の手続きが始まっていくんですけども、そういうことはコロナにしたら、熱が出るとかで保健所行くとかで表していくんでしょ?ハンセンの場合はそれはなかったもんね。反対に上から、病気が見つかったらざっと来る状態でしたからね。

松川:そこはだいぶ違うんだニュアンスが。今は高熱とか症状がでたら自分からどこに相談いけばいいですか?じゃあどこどこへ連絡していってみてくださいって感じになるけど、ハンセン病はそういう感じじゃなかった。

中尾:自分で診察行きますけど、ハンセンだってことがわかったらすぐに県の方へ連絡がいく、昔の予防法はそうだったからね。だから隠すこともできない。以前は田村さんが言ったように山小屋作って生活したいうのは、まだまだ予防法が充実してないとき、明治時代、国立ができるちょっと前までは自分で山の中生活した人もおります。一番遅かったのは沖縄だったと思いますけど、病気が治るんだってことでどんどん沖縄のは早く解放されましたから。米軍が上陸したから、病気そのものも向こうの方が早く治せるといいましたからね。昭和18年くらいにはプロミンができて治療が始まってますからアメリカはね。そういう状態ですのでごく普通の病気として扱ってる。沖縄はね。だから沖縄の療養所、橋がかかってないということで、それはいかんと、米軍がヤガて島?に橋をかけたというんですから。それほど違っていたということです。だからいかにハンセンの隔離というのが、とことん、ついこないだと言ってもいいくらい、本当最近やね。だから今一番困ってるんは病気なおって社会復帰した人たちがやっぱり療養所におったことを隠したいということ、一生懸命やるんだけど、地域の中からいらん話が出てきたりなんかして、だから生まれ故郷なんかに帰っとる人あんまりいない。やはり大都会の中で生活するという人たちが増えてきてますから。病気になったときに不動産屋さんになかなか行けない、そういう人たちもまだいますんで。このコロナと一緒になるのがとっても嫌だと。笑 こっちは重症だと。それなのに同じ道たどるんかなっていう。

松川:全然違うはずなのに。

中尾:なんでかなという気持ちがずっとあります。

鑓屋:自分がもしコロナウィルスにかかったらどうしようみたいなことをよく考えるんですけど、基本的にすごく用心はしてるし、お店もしてるからすごく自分の健康には気を使ってるつもりだし、お店に来てくれる人たちも、ここが療養所だってこともわかってくれてるし、健康状態がいいっていうのが前提だと私も思っていて、だから誰がコロナウィルスにかかってもおかしくないなあってすごく思ってるんだけど、いざ、もし自分がこういう環境の中でかかっちゃって、でそれから休んで復帰するときの自分を想像するのがちょっと怖いというか。なってしまったあと、このままちゃんとこのさざなみハウスででお店をやれるのかなあってことをすごく心配してしまうというか、だからやっぱなっちゃだめだって思うんだけど、でも思っててもかかるときはかかると思うと・・・。そのあと続けれたりするのかすごく心配。多分、飲食店してる人たちは同じように思うかもしれないけれど、それはやっぱり社会からの目っていうか、さっきも会長言ってたように治して戻ってきたら問題はないはずなんだけれど、やっぱりコロナになった人だって見られることを一番恐れていて。

松川:感染症かかって、しばらくして治って、はい復帰しました、はい大変やったね、って今日からまた一緒に仕事をして、ここのカフェでよろしく、じゃない何かがくっついてくるんじゃないかという。

鑓屋:なんか私が調理したものをみんな食べてくれるかなとか。笑 そういうことを今の社会の空気感だとすごく、実際そういう人は周りにいないとしても、ニュース聞いたりとか実際の誹謗中傷があるって聞くと不安ができてしまう。

松川:そういうことをいちいち想像してしまうような。そんなにものすごく心配症の人ではない、ちょっと共感して考えちゃうくらいので想像できちゃうところがある。

中尾:園内の人もね、用心しながら、怖いぞ怖いぞ言いながら、車持ってる人は自分で運転して出ていくからね。異常なほど用心せえ用心せえ言うんだけど、車で買い物行ってくるからどういうことやと思うけど。笑 そんなもんじゃないかな。笑

松川:用心に個人差もありますよね。

中尾:食品扱ってるからそのへんは違うかもしれんけど、病気になったらそれはいいんじゃないかなと僕は思っとるから。

鑓屋:そう思ったらね、いいのかなーって。

松川:なんでそんなに心配しちゃうんだろうっていう、そこまで心配してる自分をもう少し変に思った方がいいんじゃないかっていうのは中尾さんの話を聞くと思うところがある。

田村:実際、コロナじゃないけど毎年インフルエンザも流行るわけですよ。この前の冬は比較的少ないってことでよかったんですけど。インフルエンザが流行るとやっぱり同じような防御っていうんですかね、外来者と入所者の接触を避けるとか、そもそも外来者をいれないとかね、防御するわけで、それは今コロナだからやっているわけで、それを僕は特別なことではないと思っているわけです。というのも療養所の人たちって愛生園で平均年齢86歳で超高齢化してます。皆さん高齢ですからなんらかの基礎疾患なんか持たれてるので、そういった意味では持ち込みを防ぐ手段っていうのは取るべきだと思いますし、きっちりやらないといけないと思います。でも同じようなことするんですけど、結局は出ちゃうんですよね。経路をたどると日ごろ身の回りのお世話をしている職員だとか出入りの業者さんだったりとかね、それはやっぱり感染症だからそこに限界はあるわけで。気を付けるにこしたことはないんだけど、それは現時点でやっぱり限界はあると思っています。ですから、鑓屋さん言われるようにね、治って帰ったあとのことっていうのは、それが杞憂に終わるようにね、我々は今までハンセン病問題を通じて、感染に対して正しい理解を得てほしいと啓発を続けてきたので、それがうまく浸透していれば、鑓屋さんが病気になって帰ってきたら、大変だったねと言ってくれると信じてますけどね。まあ今そっちに触れてないのでなんとも言えないですけどね。笑

松川:やっぱりお話伺ってると病気というと種類や感染症っていう点でコロナとハンセン病は違うし社会的な国の政策とか情報の在り方とかも違って、丁寧にみていくと結構違って、むしろなんで並べてるんだろうってなるはずなのに、どっかで鑓屋さんが言うような共通点があって、感染症だから用心はするし、何か予防は。みんな病気にならないですむならならない方がいいから用心はしとこうよってそのあたりは、打ち合わせでも言ったんですけど、病気はやっぱり怖いし恐れないといけないところがあるけど、コロナウィルスかかって復帰するとき、大丈夫かな、ごはん食べてくれるかなとか、あと一人目にはなりたくないとか、あの車のナンバーがなんでここにあるんだとか、今中尾さんの話聞いて思い出したんですけど、そういう声もある。そのあたりでモニョモニョするところがあって、それで今日のタイトルは病って言葉は一切入ってなくて、社会で揺らめく人の感情、社会の次元とか人の感情の次元が気になる。でもやっぱり今の聞いてそうだよなって、コロナかかって治って帰ってきたら大変だったねってなりたいんだけど、一人目になったら、って一人目ってもう一人目じゃないんだけど、どの単位で一人目なのかもわかんないけど、どの単位でも一人目になるのは怖い。もう県とか一人目じゃないし、その怖さはあって。人に移すのが怖いってだけじゃない以上。人の目。
(このフェイスガードも)今日鑓屋さんが耳聞こえにくい人は口元見えた方が話しやすいっていうんで用意してくれたんですけど、ここ(口)はふさいでるけど、目はそのままだから目が怖いというか。

中尾:そうじゃなくて人の目というのは、病気になったということで人の目が怖いということになる。病気になってない人の目がね。そもそも目がいじめると思うけどね。

鑓屋:そういうのも今、こうやって私が不安に思ってることをしゃべって、大丈夫だよって確認がしあえるっていうか、自分が生活してる単位の中で、するとすごく安心感になってくるんだけど、それがまたひろがって社会やメディアから、また入ってきたりすると(不安に)なんかなーって。

松川:情報をみたくないって時ありますよね。みるのが怖くなる。ただの文字なのに。
それじゃあひとしきりお話伺ったので一回ここで休憩をいれましょう。

会場から質問、隔離について

松川:どうですか?前半50分くらい話してみて。会場の方からちょっと聞いてみていいですかね。

会場:治療法がない伝染病だと治らないわけですから、どうしても周りの人が不安になっちゃって伝染病にかかった人を隔離しとこうという点ではらい病とコロナも僕は違わないと思ってるんですけど。隔離の形が変わってきてるんじゃないかなって気がしてて。当時だと島にうつしてそこで暮らしてもらおうという発想で、だけど最近は人権の啓発が進んだから形態が変わってもっと隠微な、隠れた形で実はもっとあって、特にインターネットとかそういうツールがあるとフェイクニュースも含めて拡散しちゃって、そのことが別の形の隔離を現代において生み出しているんじゃないかなあという気が僕はしてるんですけど、そのあたりはどう思われますか?

松川:ありがとうございます。別の隔離とはこんな感じというのをひとこと。

会場:昔は島に隔離して物理的に誰の目にもわかるような疎外というか仲間外れというか、昔の言葉でいうと村八分みたいなものかもしれないし、それが現代では薄れてきてもっとわかりにくいモヤモヤっとした抽象的な形に変わってきてるんじゃないかなあという気がしてて、むしろ人々が心の中で見えない壁をつくって、その外側と内側に分け隔ててるって気がしてるから、具体的にそういったことが進行しているというのが見えつらいんじゃないかなあって気がしてるんですけど。僕は思ってます。

松川:ありがとうございます。今、隔離の点からコメントいただいたんですけど、よかったら田村さんお願いします。

田村:確かにハンセン病の場合は、かつて島とか僻地に隔離をしたわけですけど、最近の感染症法って法律ができて、それに基づいて患者さんの隔離というのはおこなわれるわけですが、その前文には、日本はかつてハンセン病やHIVの時に初動を誤った、それによって多くの方々の人権を傷つけてしまったと、それらを念頭に感染症法の施策をおこなうということが書かれています。ですから行政がおこなっているホテルや病院に隔離するやり方っていうのはその辺が十分に担保されたものなんじゃないかなあと思うわけですね。ただ、おっしゃるように人々の心の中にはね、いくら法律といっても越えられるものではありませんから、そういった中で病気になった人や家族を自分の生活の圏外に追いやろうとする行為、っていうのは十分にみてとれるかなと思います。なので、今回の企画に立ち返るわけですが、やっぱり我々は揺れながら不安になりながら生活をしている。それに対してハンセン病の歴史という現実を生きた中尾さんからどういった示唆を受けられるのかなっていうのが大きなテーマなので、そういったところから考えると、もう少し病気に対して寛容であるべき。今日の結論めいたことを最初に言っちゃうと申し訳ないけど、そんなところなのかなと思います。

松川:(寛容であるべきは)病気に対してなのかな?病人になのかな?

中尾:隔離っていうのは、ハンセン病もそうだけど他に結核とか赤痢とかコレラとか昔はヒフウ院?というのがあって昔はそこに隔離されていたというのはありますね。で治ったら帰ってくると。ハンセンの場合はそうでなくて生涯隔離されてしまったというのがあるわけです。コロナも一応は定められた病院に入るなり、隔離といえば隔離かもしれないけど、それは「予防する」ってことですよね。ハンセンの場合は予防じゃなくて閉じ込めてしまう方法をとられてきたんだと思います。私たち、この療養所の中で自分たちが平均年齢86歳であるのでコロナが入ってきては困る、そこはご家庭と同じようにその134人を守らないといけないから色んな制限をして、この喫茶店までは入っていいけど、その奥まではご遠慮くださいということにしてます。しかし、お盆ごろですかね、新良田地区の方の海岸、そこはきれいなもんですからキャンプに来たり、泳ぎにきたりする人もおりました。現実にはあそこまで入ってほしくなかったんだけども、だれにも見つからんという形で入ってきたのか、そういうことになってしまったんですけど。中に入ってほしくないというのはこの風邪がおさまるまで。これは家族を守るためと同じ気持ちでやってるわけです。

松川:そのあたりもやっぱりニュアンスが思ってるのと違うっていうのと、私たちが隔離って想像するのは新型コロナウィルスのように病気に感染してる間はここにいてて、ただ、先ほどの方がおっしゃったように、必ず治るというわけではないので今、治らなかったらどうしようって恐れも抱きつつも病院やホテルに入って過ごす、それはほかの人に移さないためでもあるし、その人自身の療養のためでもあるんだけど、中尾さんがいうハンセン病の隔離はそれとイメージが全然違う。一生の家族と別れるっていうことを背負っての閉じ込めっておっしゃいましたかね。それは今とられている感染症対策とも違って、今はこのエリアはご遠慮くださいねっていうのと誰かを閉じ込めるというのはやっぱり全然違うなあって。改めて思いました。一言で隔離っていっても色んな意味とかイメージとか具体的な在り方があって、それとさらに抽象的かもしれないけど精神的な隔離、それはうまく言えないんですけど、全部隔離って言っちゃってるけど、すごい色々あるぞってっていうのが思いました。

 

今の人間の心が弱い?

中尾:あのね、僕らテレビやラジオでしかわからないんだけども、コロナが流行りだした頃に医療従事者のひとたちが休みの日に家へ帰ろうとしたら家族から帰ってくるなと言われたとか、あれは厳しい例ですね。なんで?という気になりましたね。そりゃ家族のところに帰って休むのが一番。それこそ重労働やってきた人たちなんで家帰るのが一番休まるんかと思うんですけど、それを家族が拒否したっていうのはものすごうびっくりしました。というのも私たちの病気の場合、家族から帰ってくるなとか死んでくれとか言われて家出た人たちがたくさんおりますから、そういうことと重なってしまってね、こないだ放送された時にそこまで言うかって気持ちで聞きましたね。あれはちょっと辛かったです。

松川:そこは繰り返さないでくれよ、ってところですかね。

鑓屋:さっきの禁止エリアにキャンプをしにきたって話も、家族が拒否するって話も、なんていうか当事者じゃなかったり、そのことをよく知らなかったりすると、すごく軽くみてしまうなーって思って。多分、私もここで会長と話をしたり、ここに住んでる人たちの顔をはっきり知らないと、ハンセン病のことも大して知らない状態だったら、もしかすると「長島のあそこの海岸はキャンプにいいらしい」みたいなことを聞くと「あ、キャンプにいいんだ」って知らないからそこにある歴史も軽くみて、「まあ住んでるけど、私たちが行くくらいなんともならないだろう」って軽い気持ちになるような気もするし、家族のことを拒否する話も、自分とこの赤ちゃんとか子供を守る、本来家族ってそれがひとつの単位なんじゃないかなって思うけど、軽く見るっていうか、相手のこと、仕事で働いて帰ってきた旦那さんなのか奥さんなのかわかんないけど。。。

松川:その人がどんな風に働いてきて、どんな風に疲れてて、どんな風に頑張っててっていうのを、どっか他人事っていうのは言いすぎかな。でもその人になったつもりで自分だったら、みたいなことができてないってこと?

鑓屋:そうです。相手をみるって、本来想像力とかすごく必要な気がするんだけど、でも何となく知ったつもりで自分の中で決めちゃって。。うまく言えないんですけど。

松川:それは今、色んな方向から色んな情報があふれてあるっていうの田村さんが言ってたけど、文字情報とかデータとか日々アップデートされてるけど、そういうのもデータ見たらわかった気になる錯覚してるところもあるんかなと思う。

鑓屋:だけどやっぱり目の前のことをみたら、現実と知ったつもりの自分の齟齬が起きてるんじゃないかなーって話を聞いてて何となく思いました。

松川:中尾さんがおっしゃってたなんで相手の立場にたって考えられへんかなーっていうのをまた思い出して、やっぱり理解の画素数が低いんですかね。

田村:情報の過多っていうのは今と昔じゃ全然違うわけで。情報の取り方ってのも人それぞれだと思うんです。若い世代は携帯でネットニュースみて、ある程度年がいけば新聞とかテレビとかっていう情報操作ってそれぞれ違ってくるんですね。今日テレビ局や新聞社の方も来られてて大変申し上げにくいんですけど、やっぱりね、こういうセンシティブな話題をセンセーショナルに取り上げてしまう、面白可笑しくとは言わないんですけど、より衝撃的な見出しの方が読者は読んでくれるんじゃないか、とかね。こういった力学は、コロナ報道全般みても感じるんですよね。例えばテレビでしか情報のソースを取らない人、朝から晩までずっとワイドショーをみてて本当に怖いんだと思ってしまう。本当に怖いところはあるんだけど、そちらが先行しちゃうと他の情報が入ってこなくなっちゃうと思うんですね。怖い、怖い、が先に頭にでてきちゃって。今回のコロナに関しても、6月に国内の感染症研究所が出したんですけど、3月に流行ったものと6月に流行ったものは型が違うと、当然ニュースでも出てましたけど、正しい情報っていうのは今の専門家の先生たちもやっぱり掴みあぐねてる状況で、出てくる情報も日々変わってきてるはずなんですけど、一回怖いと認識されてしまった方々に、実はあれから色んな事がわかってきてって追加情報がどこまで届くのかなていうのはすごく思うところではあると思うんです。(1:18:37)
これもハンセンのことで言うと、ハンセンの場合、国から出た情報が誤っていたわけで、その信憑性はとっても高いわけでね。なおかつ隔離の必要があるから隔離したんだろうって、やっぱり一般の人たちは思っちゃいますから、それを療養所にある資料館だったり講演活動で色々話をさせてもらうんだけども、それは今まであった常識を覆す作業なわけです。で、それ、とっても大変なんですよね。コロナに関して言えば、まだまだ確定情報は出てないわけだから、柔軟的に情報をとるっていう大切さは大事だと思うんですね。今、長島の歴史館が2001年に開館して大体延べで15万人くらい見学者をお迎えしてます。そういった方々には、もちろんハンセン病の話を軸にはするんですけども、最終的なこちらからお願いすることは「同じような過ちを繰り返さないでほしい」って皆さんにお伝えするわけです。そのためには関心を持ち、正しい理解を得ていただくと、そのことをお願いしてるんですね。ですから少なくともここに見学に来られた15万人の方々には今回のコロナに関しても胸を痛めてることだと思います。自分たちになにができるんだろうと思ってくれているとは思ってるんですけどね。ですから今回コロナの患者さんに対する排除っていうのもやっぱり一面として出てきてはいるんですけど、社会全体がそういう状況でもないっていうのをできればマスコミさんとかそういうところでちゃんと伝えてあげてほしいなと思いますね。

松川:センセーショナルだったり、人の不安を掻き立ててそのことで人の関心を引き付けようとすることだけでなくて、ちゃんと。

田村:そうですね、実際にハンセン病の患者さんたちが隔離された状況の時の見出しなんかをみるとですね、「何県にらい患者発生」とかね、出てるわけです。結構センセーショナルに。いやいやこれって何か似てんなーって感じるわけですね。出し方は色々あって難しいんでしょうけど、もう少し配慮というか、それを100%真に受けてしまう人たちもいるわけで。それに対する社会的な影響ってのも少し考えてほしいなあというふうに思いますね。

鑓屋:今、色んなメディアがあって自分が信頼できるような人がやってるメディアとかから情報はいくらでも得ることができる中で、正解に近いようなものも探せる中で、それでもやっぱしコロナの排除の空気感っていうのが、多分ハンセン病の時はメディアも少なくて、ここが発信するものは社会全体のすべてなところがあったと思うんですけど、そうじゃないのに同じような排除してしまうって感情が現象として起こるのは、なんでなんだろって。さっき、会長が今の人は弱くなってしまったんじゃないかって言ってたけど、そういうことに関係してるのかな?

中尾:これもテレビでみたんやけども、全くハンセンと同じ扱いを受けてるって報道しとったのは、婚約者がコロナにかかって破談になったという話を聞いたんですけど、何?と思う。なんかこう、笑えるくらいの気がして。これ、ハンセンにかかった人が色んな目にあったというのはありますけど、職員でさえね、長島愛生園に勤めとるというだけでそういう破談の話があったということも、つい最近なってから色々と聞くんですけど、職員なんてここに手伝いに来てくれるだけなのに、お父さんが勤めとるから結婚はダメだと娘さんが破談になったというのも聞くんですけども。まったく同じことがこないだも報道されたんで。バカ違うかなとも思うんですけど。言い方悪いけど。それほど恐ろしい病気なんかなあと思って。病気に対して、人間弱いですから、色んなことが起きるんでしょうけど、そこまでいくかなって理解できなかった。そういうことが起きるということが。そんなことが今もまだ起きてるんだとびっくりしました。

松川:今の人は弱くなったんじゃないかっておっしゃったのは、隔離っていっても一生なわけではないし、情報の在り方も変わったし、病気の種類も違うけど、そんな中で、でも同じようなことを繰り返している。違う状況があるから違う風に受け止めていけるはずなのにってところにあるんですかね。

細分化しすぎな世の中

中尾:変な話だけども、僕、第二次世界大戦が始まった時にちょうど小学校1年生でした。で、終戦まで戦争状態の中で小学時代を過ごしたんだけど、そんな中で同じクラスに足の不自由な人がおったり、韓国朝鮮の人がおったり、普通ならそこで色んな差別が起こるんだろうけども、先生がうまいこと教育してくれたなと思うのは「手助けせえ」と、足が不自由な人はお前らがみんとあかんぞというような言い方で教育された。戦時中、それこそあんまり勉強せんと3,4年生になったら戦争に行っとる家庭は、百姓さんで困ってるところの草取りしたり、掃除しにいったりというのを小学校時代からしてたんですけど、そんな時でもやはり、足の不自由な人を見てやるもんがおって、あとのもんが奉仕に行くというような状態でね、助けることをしとった。韓国朝鮮の人もおったけど、偏見差別はなかったし、その当時だって厳しかったからね。朝鮮に対しては。そのことは一切言わさんかった。だから、いい先生に巡り合えたなと思っとる。あんな苦しい中でもそんな生活ができたんだから今、コロナのことでこんなけいじめっこするんかなあというのがものすごい気になるところですね。

松川:お話を聞いてて、怖さとか不安とか、なにが正解かわからない状況で今私たち暮らしていて、それが現実だけど、何が皆さんとお話した事態にしちゃうんかなーって、不安なのかな。

鑓屋:会長の先生の話を聞いて、そういえば私社会にでてびっくりしたことは、商店街を普通に目の見えない人が杖を使って歩いてるのを見た時に、障がい持ってる人ってマチに普通にいるんだって、私にとってはすごい驚きで、なんでそんなに驚いたのかなって思ったら、多分、これまで生きてきた中でそういう人と関わることもなかったし、学校に行っても、韓国の人とか国籍の違う人たちはまた違う学校に行ってたり、少し障がいを持ってる子たちは支援学校に行ってたりとか、全然自分の中で見えてなくて、社会に出て突然色んな人が現れて、外国の人もたくさん歩いてて、突然英語聞かれて、あ、英語忘れたってなったり。笑

中尾:今言われたようにね、今の教育いうのは、目の不自由な人はそういう学校へってわけてしまうでしょ、僕らのころはそんなもん怖さはあったかもしれんけど、その他のことはたいがいおおらかだったから、そういうことで僕らは育てられたから、別に病気がどうこうって、危険なものは危険として扱われるけど、そうでないものはごく普通に過ごしてたから。そんなに風邪くらいのことだったら笑われるくらいのことで済んでたけど、今は子供やったら引き寄せてね、そういう人には近づけないような、そういうことをやってしまうようなところがある気がしてね。

松川:そういう分断、わけて育つからどうしたらいいかわかんないし。私もそういえば、大人になってからお友達に視覚障がいの方が現れて一緒に歩くときにどうしたらいいのかとか、その方に教えてもらったけど、もっと早く会ってもよかったのになって。一緒に育ってないからどうしたらいいのか、どう暮らせばいいのかわかってなくて、そういう弱さって確かにあるかも。だから治療とか感染予防とか、隔離って言葉がだんだん嫌になってきたけど、隔離が必要だけど、わける、分断させるっていうのは私たちを弱くするものなのかも。

中尾:色々、細分化しすぎなのかも。

松川:そうそう、細かくわけすぎて。

中尾:そのマチの中にそういう目の不自由な方、足の不自由な方が出歩けるようになったというのはね、昭和57~8年だったと思うけど、世界障がい者年というのがあったんですよ。そのころから障がい者がマチに出やすくなった。僕らも出やすくなった。岡山へ出る時とかね。だんだん、そういう時期から開けてきたような気がしますね。

松川:一緒に道歩いてるとわかるんですけど、道って健常者向けにできてるから、彼らのそれぞれ歩きやすい道ってまた別の構造になってたら歩きやすい。例えば視覚障がいの友達やったら、道が広すぎると歩くときに杖がゆがんでいっちゃうんですよね。端がカンカンって当たるくらいの狭めの道の方が歩きやすいんですけど。そういう健常者にあわせて道がつくられていて、一緒に歩く時は、合わせてくれてありがとうねって気持ちで歩くくらいが自然なのかなって思ったりするんですけど、それもやっぱり歴史の中で障がい者が歩ける。

中尾:例えばね、盲人の人が道を迷われていたら、たいがいの人は杖を持って誘導しようとする。ところが杖を持つと目をふさいだようなもんだから、反対側を持ってやらんといかんのだけど、たいがいの人は杖持ってる手を持つし、それで案内する。それの方が怖い。反対側の方に引き寄せた方が歩きやすい。そこらへんのことを時々中学校とか小学校へ行ったときに、手助けできるようになってほしいなと最後に言って帰るんだけども。本当に慣れんことだから。

松川:そうですよね、知らないだけですもんね。

鑓屋:お店に毎週水曜に鍼灸師の先生が長島に通ってきてるんですが、、ここで食事をしてくれて、目が見えない方なので、これまでは一緒に来る人がいたんだけど、ひとりで来るときがあって、大丈夫だから!と言われながら私たちも心配で道あっちだよーとか一緒に歩いてた時に、会長がたまたまセニアカーで通って、あ、会長に頼んじゃおうって思ってエスコートをお願いしたら、私たちはどういう風に一緒に歩けばいいかなって、道はこうじゃなくてあっちっていうのを伝えたいんだけど、会長は杖を持ってない方の手をセニアカーにのせて行くよーってシューッと出発したんだけど。

松川:それ初めてきくスタイル。笑

鑓屋:なんてスムーズなんだって驚いた。笑 あ、わかってるなあっていうのを思い出しました。

松川:思いのほか、話が広がったけど、未知のウィルスが出る中で暮らしていくっていうのに私たちは慣れない、右往左往しながらやってるけれども、初めてだから、でも初めてなのに同じことを繰り返しているっていうのもおかしいんだけど。まあでも、隔離と分断の違いっていうのが見えてきたなって。
中尾:コロナの場合、やっぱり薬がないっていうのがごっつうきついと思います。他の風邪は薬でなんとかなる、でも今なにもないから余計に不安が募るんだと思うけど。なんとかはようワクチンができれば少しは違うんだろうなあと思うけど。まあ年月がかかるみたいだから。
松川:そういう状況を手探りでどう過ごしていくかを学んでいかないといけないのかなあって、障がい者と一緒に歩くってことも最初はわかんないことだけど、正解がわかんない状況の中で学んでいかないといけない、その中で分断の怖さを私感じたんですけど。
(今、お時間が~~)

 

最後に

松川:最後に印象に残ったことを聞いて締めようと思います。田村さん、どうですか?

田村:そうですね。最初にお話しを頂いたとき、どんな話ができるかなあと自分で色々考えてはみたんです。やっぱり、最初から申し上げている通り、ハンセンとコロナはそもそもが違う、置かれた状況も違う、というのがひとつと、あと、病を怖がる私たちの気持ち。これも当然といえば当然だと思います。なので、それをどう乗り越えて共に過ごす社会をつくるかがひとつの課題なのかなあと感じました。そうですね、ここで求められてないのかもしれないけど、百点満点の答えをいうと、世の中にはいろんな人がいる。日本人も外国の人も、病気の人も障がいの人も感染者の人ももちろんいるだろうし、その互いが認め合い理解する社会をつくることが大事、というのが百点満点の答えだと思うんですけど、でもこんなの僕らが言っちゃあれですけど、なかなかこんな理想には成しえないわけで、その状況を目指すためには、やっぱりその都度その都度知識を、理解を深めること、そして怖い不安な気持ちとも上手く付き合っていくこと、このバランスが大事なんだと思います。まだ先がみえてないから、具体的にこうすべきってことがうまく言えない面もあるんですけど、少なくとも療養所を訪れて下さった方、特に歴史館や園内見学をしてくださった方は自分の近くから排除するっていうことは、これは無らい県運動の時と一緒だなと少し頭をよぎってもらえたらいいですね。

中尾:本当、コロナと一緒にされるのがつらいなあと思うこと。いまだに言われるのは、ハンセン病は税金で養ってもらったんじゃないか、ということ。僕たちは好きでそんな状態になったんじゃないし、国全体でハンセン病を撲滅するということで、治すんじゃなくて撲滅、です。撲滅するために療養所をつくったようなもんなんで、そのへんがなかなか理解されない。だから、あんたたちは保障されていたんだから、というような言い方をされることが未だにある。その方は、一応理解してここに入ってきてくれるんだろうけど、おなかにはまだそういうものがあるんだなあということを、つい先日も知らされたようなところがありました。ハンセン病とまた違うコロナという症状、なのにハンセンと全く同じ差別が起こるということ、どうも腑に落ちないし、もうちょっとお互いが理解しあって、この病気を克服していってほしいなあと思います。今日はむつかしい話で、語りづらかったです。笑

松川:でも私たちは中尾さんのおかげで、わかってなかった話も、どこがわかってないかというのをまた知れたし、分断されてしまうことの怖さとか危うさ、印象に残りました。ありがとうございます。

鑓屋:ここのお店をオープンした時、ハンセン病だった人が暮らしている場所ですごいドキドキしていて、どんな人たちがいるかも正直よくわからなかったし、少しずつ顔が見えてきて、かつて症状に悩まされて指先をなくしていたり、私たちが普通に飲んでるものも、この人たちは使いづらいんだとか、そういう生活の違いを少しずつ理解できるようになってきて、でも、いざもしハンセン病みたいな病気が未来に起きたら私はどうするだろうなあってすごくぼんやりと考えていた時にコロナウィルスが発生して世界に拡大していって、やっぱり自分の中で迷いとか戸惑いとか、時間がたつごとに考えもコロコロ変わったりしていて、今日話をしてみて、すごく安心した部分と、自分がわかってなかった部分がわかったのが、ここで暮らしていることが自分にとって、これからを過ごす日々の問いかけにも(なっていて)こうやって話しても絶対会長たちの病気を理解しきれてないし、わかったつもりなんだけど、その中でも問いかけってすごく出てくるなあと思って、また日々のモヤモヤを大事にして過ごしていこうと思いました。

松川:私も鑓屋さんにお誘いいただいて、最初訪れた時は、歴史館みて島の中をめぐって、中尾さんの話を聞いてっていうツアーに参加したときは、ハンセン病のことを中尾さんにどんな風に聞いたらいいかっていうのが、初めてで慣れてなかったっていうか、どういう風に自分の考えを伝えたらいいかわからなかったんだなと改めて思いました。さっき中尾さんと事前にお茶のみながらお話して、色々と聞く勇気が自分の中にわいてきたなあと。笑
思ったし、1回目来た時よりも、この場所の解像度があがったなあと。今日中尾さんがずばっと最初に「全然違う」って言ってくれて、うれしかったっていうか、自分が思ってた答えと全然違って、あ、そうなんだ!って素直な関心がわいてきたし、この場所は来てみないとわからないけど、差別の歴史を感じるとともに、めちゃくちゃ希望を感じさせてくれる場所でもあって、歴史館にあるここで暮らした人の作品もそうだし、景色もすごくて居心地のいい島なんですよね。閉じ込められずに、自分から望んで来れば。そういうところで今日の話を聞けてよかったです。分断には要注意だなと覚えて帰りたいと思います。ありがとうございました。

posted : 2020.08.30
喫茶店の日々 長島を歩く さざ波立つ人たち