Voice1:石田雅男さん・懐子さん
聞き手:鑓屋翔子(喫茶さざなみハウス店主)
文:大石始
写真:池田理寛
平成11年(1999年)、長島愛生園で25年ぶりの夫婦が誕生した。夫は昭和11年(1936年)生まれの石田雅男さん、妻は昭和24年(1949年)生まれの懐子さん。以来、愛生園で新たな夫婦は生まれていない。おそらく石田さんご夫妻は愛生園で結婚した最後のカップルとなることだろう。それから20年以上、雅男さんと懐子さんは支え合うように人生を歩み続けている。
そんな石田さんご夫妻に話を伺うことになった。聞き手の鑓屋さんは喫茶さざなみハウスでたびたび顔を合わす仲。そのため、3人の間にはリラックスした雰囲気が流れている。「まずは出会いから入りましょうか?」――雅男さんが切り出すと、秋の暖かな陽光が差し込む浜辺のベンチに腰掛けながら3人の会話が始まった。
●「私は親に捨てられたんだ」
雅男さんと懐子さんのおふたりは、もともと愛生園の自治会事務局の同僚。いわば職場結婚だ。雅男さんは結婚のいきさつについてこのように話す。
「事務所で毎日のように顔を合わせるうちに、仕事上のことで話し合ったり、あるいは土日の休日にドライブに誘ったり、そういうことが重なっていったんですよ。私はもう60歳になっていたけれど、その歳まで結婚についてあまり考えたこともなくて。彼女と付き合ってるうちに、これから1人で年を取っていくと寂しくなるだろうなと思って、『一緒に暮らしていかないか』と言ったんです。そうしたら意外と早くうなずいてくれましてね。トントン拍子で一緒になる日付を決めていきました」(雅男さん)
雅男さんと懐子さんの人生には共通点が少なくない。雅男さんが昭和21年(1946年)、10歳のとき愛生園に入所したのに対し、懐子さんは昭和35年(1960年)、11歳で愛生園にやってきた。幼少時代に辛い経験を重ねてきたふたりは、やがて自然に共感し合う仲となった。
「私らは愛生園に入ったときの年齢が似てるんだけど、時代が違いますね。私が入ったのは昭和21年。戦争が終わって1年しか経っていない時代で、その厳しさを全身に受けました。本当に辛かったですね。まず、食べ物がないから自給自足。少年寮には学校もあったけど、学校は午前中だけで、午後からはびっちり農作業。サツマイモやジャガイモ、大根を作って、それで腹を満たしていく。ひどい重労働の毎日やったね。私が入った頃がそのピークじゃなかったかと思うんですよ」(雅男さん)
「私が入所したのは昭和35年です。畑で重労働することもなかったですし、畑をやるにしても自分たちの楽しみで花を植えたり、そういうことはしていました」(懐子さん)
日本で治療薬によるハンセン病の治療が始まったのは、雅男さんが愛生園に入所した翌年、昭和22年(1947年)のことだった。懐子さんが入所した昭和30年代にはハンセン病は確実に治る病気となっていたが、彼女のなかには入所時の辛い記憶が今もなお生々しく残っている。
「私は愛生園に来るということを親から知らされていなかったんです。ちょうど夏休みだったんで、旅行に行こうと親に連れ出されて。私の家は旅行に行けるような裕福な家庭じゃなかったんで、本当に嬉しかったですね。ここに来て2、3日目ぐらいかな、私がどこかに行ってる間に母親とおばあちゃんが家に帰っちゃったんです」(懐子さん)
「私は親に捨てられたんだ」――当時11歳の懐子さんにはあまりにも辛い経験だった。
「親の愛情もわからないままに生きてきたので、子供時代は人に対する接し方があまり上手じゃなかった。同じ年頃の子と騒ぎはするんだけど、親に捨てられたことを忘れるために友達と騒いでいたんだと思う。だから、当時の記憶が全然残っていないんですよ。ある人には『きっと嫌なことを忘れたくて、記憶が残っていないんじゃないか』と言われました。忘れたいというより、自然に消えていってしまったんじゃないかと」(懐子さん)
一方の雅男さんは、両親と良好な関係を築いていたという。
「どういう状態に置かれてもヤケを起こさずに生きてこれたのは、やはり両親がいたからじゃないかな。自分の人生がどうなっていくかわからないけれども、とにかくまともに生きていこう、そう思わせてくれたのは、両親の見えない手引きがあったからだと思います」(雅男さん)
●「やっぱり親だなと思いました」
平成11年(1999年)の結婚後、雅男さんは懐子さんに対して驚く提案をする。生き別れになった母親を探し出そうというのだ。
「綺麗事のようになっちゃうんだけど、実は自分の両親に親孝行のようなものがほとんどできなかったんですよ。これ(懐子さん)の親が生きとるかもしれんということで、それに期待してね、親探しをやってみようと」(雅男さん)
懐子さんは親探しを雅男さんから提案されたときのことを「私は戸惑いました」と回想する。
「生きてるんなら生きてるでいいかなと思ったし、主人の親と私の親とはやっぱり全然違いますよね。だけど、親だから、私のことを忘れたことは一度もなかっただろうし……」(懐子さん)
懐子さんの母親探しは、雅男さんの主導で進められた。
「県の担当課を通してお願いをして、『見つかったら電話を入れてほしい』と電話番号を渡しました。電話がかかってくるんじゃないか、元気におられるんじゃないかと。そう願いを込めるように、待っていたんですね。そうしたら1年ちょっと経った頃かな、担当官から電話が入ったんです。『お母さんが見つかりました。近いうちに電話が来ると思いますから』と」(雅男さん)
まさに待望の一報だった。だが、いくら待っても懐子さんの母親から連絡はこない。母親は母親で事情があり、複雑な思いがあったのだろう。
もちろん複雑な思いを抱えているのは懐子さんも同じ。懐子さんは昭和47年(1972年)から昭和63年(1988年)までの16年間、島の外で生活をしていた時期があるが、その間も母親には一切連絡しなかったという。
「私が愛生園にいたことがわかると働けなくなると思っていたので、島の外では(愛生園にいたことを)隠しに隠していました。そのために嘘をついて、そのひとつのためにまた嘘を言わなくてはいけなかった。それが一番辛かった。そういうことを相談できる人、それこそお母さんに話せていたら多少違ってたかもしれませんけど……大人になってからも親を許せなかったんですよ」(懐子さん)
懐子さんの母親から電話があったのは、県の担当者から連絡があってから数ヶ月後のことだった。
「主人が『親が喜ぶから、迎えに行っておいで』と言うので、岡山駅までドキドキしながら迎えに行ったんです。私は親と小さいときに別れたきりだったんで、こちらから見つけられるか自信がなかったんですけど、向こうが先に私を見つけてくれて『なっちゃんか?』って言ってくれました。やっぱり親だなと思いました」(懐子さん)
止まっていた時計がふたたび動き始めた。3人はたびたび旅行に出かけ、ときには懐子さんの母親が泊まりがけで愛生園にやってくることもあったという。
「できる限りのことはしてあげたいという気持ちはありました。自分の親がいないので、その親の分までね。北海道や沖縄にも旅行に行きましたし、正月やお盆にも来てくれたりして。今までできなかった分、お母さんを大事にしていこうと。最後のほうは彼女もね、ずいぶんと仲良くしてましたよ」(雅男さん)
一方の懐子さんは「本当なら嬉しかったはずなんですけど、親には結構冷たくしてしまって」と、当時のことを思い出しながら目を伏せる。
「母親が亡くなってもう8年目になりますけど、そこを後悔してますね。親にもうちょっと優しくしてあげればって。親は親で言いたいことがいっぱいあっただろうし、聞いてあげたらよかったなというのが悔いになってます」(懐子さん)
●「寂しさや不安の半分は引き受けてくれる」
結婚から22年、おふたりの関係性はどう変化しましたか?――鑓屋さんのそんな質問に対し、雅男さんが力強く語り始める。
「以心伝心というけども、こちらが思ったことを向こうもすっと口に出したりして、何かしようと思ったらこちらが思ってることをぱっとやったりして、気の合うところが出てきたなと。あとね、お互いに飾りっけがなくなった。付き合って20数年になるけど、一緒になったから自分の好きなことができんとかね、そういうことはない」(雅男さん)
「結婚してよかった」。今回の取材中、雅男さんは何度も何度もそう口にした。
「どちらかが病気をしたとき、あるいは怪我をしたとき、痛切に感じますね。助け合えているな、と。寂しさや不安は当然あるんだけど、そうしたことの半分は引き受けてくれる」(雅男さん)
懐子さんの言葉は雅男さんほどストレートではないものの、言葉の端々に雅男さんに対する愛情が滲む。
「愛生園の年配の人によく言われたんですよ。結婚してからは、隠し事や嘘は絶対駄目だよって。私って今まで嘘や隠し事がたくさんあって、そういうことがなくなったっていうだけでも気持ちが楽になりました。気持ちの負担がなくなったっていうのは本当に違いますね。いろんなことありましたけど、もう過去は過去かなって思えるようになったのは、やっぱり話せる相手がいるからかな」(懐子さん)
会話の終盤、「そういえばね、鑓屋さんは散々聞いてると思うけど」と、雅男さんが十坪住宅について話し始めた。十坪住宅とは、昭和18年(1943年)までの数年間、愛生園に建てられた10坪6畳2間の木造住宅。約150棟の十坪住宅が建設され、1、2組の夫婦が居住したという。愛生園の定員が超過したため当初の計画以上の人々が住むことになり、ハンセン病強制隔離政策の象徴とされることもある。
雅男さんは「隔離の象徴として十坪住宅を挙げるのは僕は真っ向から反対」と言い切る。
「十坪住宅というのは第2の人生を送るところだと思う。誤解されやすいんだけど、再出発、人生を生き直すための場所という面もあった。十坪住宅には夫婦がいっぱい住んでいて、私も親しくしていた夫婦がいた。毎月毎週、夕食をいただきに通ってね。私を加えて3人でビールを飲んだりして騒いでね、楽しく食事をしました。その光景のどこに暗さがあるか。私の目に映った光景からしたらね、そんなに暗いもんじゃないよと。そういうことが言いたい」(雅男さん)
「ありがとうございます。改めてお話を聞けてすごく嬉しかったです」――鑓屋さんがそう告げると、雅男さんは表情を緩めた。
「いやー、私たちもね、今日どんなことを聞かれるのかなと思っていました。一般的には『一番悲しかったのはどういうことですか』とか、そういうことがよく問われるわね。そういう中でもね、ちょっとしたことに喜んだり笑ったりしたことが、本当に楽しかったと思える。小さな光やけど、ちょっとした些細なことやけど、あのとき気持ちがほっとしたなとか、嬉しかったなっていうね。悲しい記憶の中で、そういう些細なことがキラキラ光っている。僕ら20年前に一緒になったということを今振り返ってみたら、本当に光ってるんよね。かなり強い光を放って、自分たちを励ましてくれているようにも思えるわね」(雅男さん)
お互いに支え合いながら歩み続ける石田さんご夫妻。その背後で虫明湾の水面がキラキラと光り輝いていた。