光明園の狛犬。

最近は時間があれば光明園の方にも探索に出かけている。同じ長島の中にあるけど、愛生園とは成り立ちが全く違う。もともと大阪にあった外島保養院が室戸台風の被害を受けて長島に移転、それが今の光明園だ。会長のOさんに話を聞くと色々教えてくれるので興味深い。Oさんは初めてさざなみにやって来た時、園長先生と一緒に短時間の滞在で、モーニング、ドライカレー、ランチの3食をあっという間にたいらげて私を驚かせる。それに加えて、大きな身体にこわもての風貌なので、実は最近まで会うたびずっと緊張してたけど、話せば話すほど、とても気のいいオジサマである。
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現在、光明園は居住地区と交流館への立ち入りがコロナで制限されているけれど、監房と光明神社はそこから道路を挟んで反対側にあるので歩いてみた。行って帰ってざっと1時間くらいだろうか。神社は離れ小島にある長島神社と違って、林が生い茂る中にあり、地元の神社のような懐かしさ。鳥居をくぐると焼き物でできた狛犬がみえるので近づく。岡山の古い神社の中には備前焼の狛犬がいることがあるけど、光明神社はなんと信楽焼だった。あの有名なタヌキを思い出すような間の抜けたキュートな顔立ち、口の中には小さなマリ。狛犬の台座には「滋賀縣癩根絶期成同盟會」の文字が力強く残っていた。

 


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神社の狛犬がどうして信楽焼だったのか尋ねてみると「滋賀と岡山と鳥取は特に無らい県運動に積極的だったからね。」とOさんが教えてくれた。たまたまいた園長先生からは、光明園の人は神社をとても大切にしてると聞いた。
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無らい県運動は、各県のらい病患者を療養所に送り込む運動のことで、病人を県から一掃するものだったらしい。神谷文庫で読んだ『小島の春』では、愛生園の小川正子医師が四国や岡山、鳥取のらい患者を探し、愛生園への入所をすすめる旅に出た日々を本人が綴っていた。私はこの「無らい県運動」が隔離政策を助長したネガティブなものなのだと思っていたけど、小川先生が一生懸命になって地域やらい病患者を説得する様子や、信楽焼の狛犬をみると、なんだかそれだけではないようにも思える。それぞれの立場で奔走し最善を尽くす姿を思い浮かべると、深く考え込んでしまうなにかがある。でも、当事者の人たちがそれぞれ語る言葉は事実に違いないと思っている。ただ、切ないなあと胸が痛くなる。正義を胸に持つことは大切だけど、果たしてそれは万能なのか。当てもなく良い悪いを考えると、それじゃあ自分は一体どうなのか、ぐるぐる、足元がぐらつく気持ちになった。
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posted : 2021.02.21
喫茶店の日々 長島を歩く さざ波立つ人たち