長島アンサブル 5th time
黄金のみち、銀のさざなみ

2023年11月、5回目となる長島アンサンブルが開催された。
タイトルは「黄金のみち、銀のさざなみ」。
初日となる11日には寺尾紗穂(シンガーソングライター、文筆家)と 山川冬樹(美術家、ホーメイ歌手)の ふたりによる共演コンサートが、続く12日には寺尾紗穂、鑓屋翔子(さざなみハウス店主)、 大石始(文筆家)によるトークセッションが行われた。

1931年の開園以来、長島愛生園ではさまざまな人々の人生が交差するとともに、機関誌「愛生」などを通じて入所者たちの日々の暮らしや思いが綴られてきた。 人々は長島の地で何を綴り、どのような思いを込めてきたのだろうか。 そして、現在に生きる私たちはその言葉にどのように向き合うことができるのだろうか。12日のトークセッションの模様をお届けしたい。 (Text:大石始)

母親に対する入所者の
複雑な思い

大石

鑓屋さんが好きな文章ももう少し紹介してもらえませんか。せっかくなので今日はたくさん読んでもらおうと思ってるんですよ。

鑓屋

「愛生を読む会」で「私、森岡律子という人が気になるんです」という人がいたんですよ。森岡律子さんは入所してから目が見えなくなって、「点字愛生」を中心に書かれていたんですね。

弟さんもいて、家族との関係は悪くはなかったんだけど、お母さんだけは許せなかった。弟さんは森岡さんが愛生園に入所したあとに生まれたそうで、森岡さんも赤ん坊のころに会ってるんですよ。でも、お母さんは森岡さんに弟をだっこさせてくれなかった。

大石

感染するんじゃないかと。

鑓屋

そうです。それが森岡さんのなかでしこりとして残ってしまった。そういう時間を過ごしてきていた人の文章を、みんなで時間をかけて辿っていったんです。最後に掲載されていたのが「2人の母録音テープ」という文章です。
これも冒頭だけ。

森岡律子『2人の母の録音テープ』

 私たちは録音テープに吹き込んである内容を点字でメモし、それぞれに貼り付けている。夫は点字を探る指先の感覚が鈍くなったので、必要なテープを取り出すときは、私がメモを見ていく。必要なテープでない場合は、これも違うと言って、次々見ていくが、「2人の母」という文字に触れると、「2人のお母さん」といつも読むように言う。

 夫の母と私の母の声が入っているのである。「お母さんよ」と彼に言い、懐かしいお母さんとのテープの中の母に呼びかけたい思いが流れる。2度や3度は堪えられるこの思いの流れも、何度か重なると灰汁のようなものが溜まってくる。

 自分で録音機を操作できない私は「また一度聞かせて」と彼に頼む。聞いてみたところで、何度もこれまでに聞いた通りのことだが、また聞きたい。いくら感覚のある皮膚に母の写真を押し当てても見ることのできない今は、録音テープが写真のようなものだと人にも言う。

 こういう文章で、最後はお母さんから「長生きしなさいね」という声をかけられたという話です。「愛生を読む会」でこのラストに辿り着いて、みんなでホッとしました。

寺尾

母親からしてみると「子供に移してはならない」という強い思いがあったわけですよね。

これは徳永進さんというお医者さんが書かれた『隔離 故郷を追われたハンセン病者たち』という本で、愛生園の入所者の方40人くらいに聞き書きをしているんですね。このなかですごく印象的だった文章の一部を読んでみたいと思います。名前は書かれていないんですけど、高校生のころ愛生園にやって来た男性の文章です。

友だちといっしょに学校に行けん、一緒に遊べん、同じ田舎に住んどる人に「おはよう」「晩になりました」というあいさつもできん、人を避けて暗いときにしか道を歩けん、こんな悲しい目に、なんでわしは合わんといけんのかと思った。

わしが選んでそうしたわけじゃなかった。わし、そのころ子ども心にものすごい反抗心、特に世の中の親に対して、反抗心をもっていた。

(中略)

ここ(長島愛生園)に来るのがものすごくうれしかった。おかしいでしょう。田舎のみんなに嫌われていじめられとったから、その田舎から「逃げる」ことができるっていうことが、ものすごく嬉しかったね。

ふつう子どもなら、悲しんで故郷を離れるもんでしょうけど、わしは近所の奥さん、母親、つまり大人の女たちに、目に見えるところでも目に見えんところでもいじめられとったから、本当にホッとした。

…そう書いてるんです。子供を守りたいがゆえの母親たちの偏見というものもあったということを感じますし、それはハンセン病だけでもないんですよね。戦後、米軍兵士と日本人との間に子供たちがたくさん生まれて「合いの子」と言われて差別されたんですね。

神奈川の大磯にはそういう子たちを集めて教育するエリザベス・サンダース・ホームという児童養護施設があります。そこも最初は孤児院のような場所だったわけですけど、そこから子供たちを地元の小学校に通わせようっていう動きになったんです。

でも、そこの学校のPTAが「パンパンの子供なんかが入ったら困る」と抗議をして、仕方なくエリザベス・サンダース・ホームの中にも学校が作られたんです。

鑓屋

私、この夏に熊本の菊池恵楓園っていうハンセン病療養所を訪れたんですけど、そこの資料館では1953年にあった龍田寮事件について紹介されていました。

当時療養所の中に未感染の児童たちが通う小学校とか宿舎のようなものがあったんですね。その子たちは病気ではないから、外の小学校に通わせようということになったんだけど、やはり同じように当時のPTAがそういう子供たちが登校することを拒否したという事件があったんです。

大石

ひどい話ですね。

鑓屋

愛生園の入所者の中にも自分の母親に対して複雑な思いを抱えた方は少なくないですし、お母さんのほうでもいろんな思いがあるんです。

普段はみなさん穏やかにいろんな楽しい話をしてくれますが、ふとした瞬間にそういう話を聞いて、すごく考えてしまうんですね。

寺尾

本来、お母さんが一番受け入れられるはずだと思うんですよね。でも、それができないというのは「世間にどう見られるのか」という意識がお母さんの中でストッパーになってるということだと思うんです。

差別とか偏見の核心部分である「周りからどう見られるか」という問題が親子関係にも現れてしまってるのかなと思いますね。

大石

そうやって考えてみると、ハンセン病のことも現代社会の諸問題と通底するものを孕んでいるということだと思うんですね。「愛生」に書かれていることも決して過去の終わった話ではなく、現代を生きるうえでのヒントもここにあるように思うんですね。

さっきの愛生詩のように「愛生」に書かれた言葉をある意味リミックスし、自分のものにしていく。そういうことが大事なんじゃないかな。

【つづきます】