1981年東京生まれ。
2007年ピアノ弾き語りアルバム「御身」でデビュー。
映画主題歌、CM制作(近作にKDDI、JA共済など)やウェブ、新聞雑誌での連載、書評など、音楽と文筆を生業とする。
イ・ラン(韓国)、フェルナンド・カブサッキ(アルゼンチン)、レイチェル・ダッド(イギリス)ら海外アーティストとの共演多数。
あだち麗三郎、伊賀航と共にバンド「冬にわかれて」でも活動を続ける。
土地に埋れたわらべうたの発掘、リアレンジしての音楽発信をライフワークとし、『ミュージック・マガジン』誌で「寺尾紗穂の戦前音楽探訪」を連載中。
須崎「現代地方譚」や松本・浅間温泉の「ユアリテ」など地方の芸術祭などで当地の歴史と向き合って文章と音楽を発信する等、表現発信の場が増えている。
2022年4月より各地のドキュメンタリーを放送する番組「Dearにっぽん」(NHK)のテーマ曲に「魔法みたいに」が選ばれ、教科書『高校生の音楽Ⅰ』(教育芸術社)にも同曲が掲載される。
発起人として始めた、ビッグイシューを応援する音楽イベント「りんりんふぇす」は青山の梅窓院で10回目を迎え、2024年からは会場を山谷の玉姫公園に移して「りんりんふぇす山谷」
としての開催継続を予定。
最新刊は国内の戦後開拓地やパラグアイに取材した『日本人が移民だったころ』(河出書房新社)、アルバム近作は「余白のメロディ」、写真家・石川直樹、映像作家・三好大輔と作りあげたインスト・アルバム「流した涙の数だけ美しい虹がたつ」。
また戦前の女工をテーマにした「spinning 女の子たち 紡ぐと織る」や「女の子たち 風船爆弾を作る」などうずもれた歴史をテーマに、作家小林エリカとタッグを組む音楽朗読劇の制作にも取り組んでいる。
2023年11月、5回目となる長島アンサンブルが開催された。
タイトルは「黄金のみち、銀のさざなみ」。
初日となる11日には寺尾紗穂(シンガーソングライター、文筆家)と
山川冬樹(美術家、ホーメイ歌手)の
ふたりによる共演コンサートが、続く12日には寺尾紗穂、鑓屋翔子(さざなみハウス店主)、
大石始(文筆家)によるトークセッションが行われた。
1931年の開園以来、長島愛生園ではさまざまな人々の人生が交差するとともに、機関誌「愛生」などを通じて入所者たちの日々の暮らしや思いが綴られてきた。 人々は長島の地で何を綴り、どのような思いを込めてきたのだろうか。 そして、現在に生きる私たちはその言葉にどのように向き合うことができるのだろうか。12日のトークセッションの模様をお届けしたい。 (Text:大石始)
シンガーソングライター
文筆家
寺尾 紗穂
TERAO Saho
現代美術家
ホーメイ歌手
山川 冬樹
YAMAKAWA Fuyuki
自らの声・身体を媒体に視覚、聴覚、皮膚感覚に訴えかける表現で、音楽/現代美術/舞台芸術の境界を超えて活動。
己の身体をテクノロジーによって音や光に拡張するパフォーマンスや、南シベリアの伝統歌唱「ホーメイ」を得意とし、ヴェネツィア・ビエンナーレ、フジロック・フェスティバル、国内外のノイズ/即興音楽シーンなど、ジャンルを横断しながらこれまでに16カ国で公演を行う。
現代美術の分野では、マスメディアと個人をめぐる記憶を扱ったインスタレーション『The Voice-over』(1997〜2008/東京都現代美術館蔵)、「パ」という音節の所有権を、一人のアートコレクターに100万円で販売することで成立するパフォーマンス『「パ」日誌メント』(2011~現在)などを発表。
ハンセン病療養所(瀬戸内国際芸術祭/大島青松園)や帰還困難区域(Don’t Follow The Wind展/グランギニョル未来のメンバーとして)での長期的な取り組みもある。
2015年横浜文化賞 文化・芸術奨励賞受賞。 秋田公立美術大学美術学部アーツ&ルーツ専攻、大学院複合芸術研究科准教授。
喫茶さざなみハウス
鑓屋 翔子
YARIYA Shoko
1988年大阪市生まれ岡山育ち。
大学を卒業してUターン、地方で暮らすことを模索し、働きながら近所の空き家を改修したり、中間支援のNPOで県内の地域に出向いたり、ゲストハウス複合施設での勤務を経て、2019年7月より長島愛生園内で喫茶さざなみハウスをスタート。
喫茶営業のかたわらで、入所者の方の暮らしや療養所の歴史を記録し、島の外にいる人たちに向けて発信しています。
文筆家
大石 始
OISHI Hajime
1975年東京都生まれ。
文筆家・選曲家。旅と祭りの編集プロダクション「B.O.N」主宰。音楽雑誌編集部を経て、2007年よりフリーの文筆家としてさまざまな媒体で執筆。
これまでの主な著書に『ニッポン大音頭時代』(河出書房新社)、『ニッポンのマツリズム』(アルテスパブリッシング)、『奥東京人に会いに行く』(晶文社)、『盆踊りの戦後史』(筑摩書房)など。
2022年11月には屋久島の古謡「まつばんだ」の謎に迫る新刊『南洋のソングライン 幻の屋久島古謡を追って』がキルティブックスから刊行された。
機関紙「愛生」を読む
大石
鑓屋さんはここに積み上げられている長島愛生園の機関紙「愛生」を読む会をやっていらっしゃいますね。昭和6年から現在まで刊行され続けている「愛生」は入所者の方々にとって文芸活動の場になってきたわけですが、どのような会なのかお話いただけますか。
鑓屋
「愛生を読む会」ではたくさんあるバックナンバーをこうやってリュックに詰めて、あちこちに出かけてるんです。いま私が持ってるリュックがまさに普段使ってるものなんですが…。
大石
だいぶ使い込まれてますね(笑)。
鑓屋
そうですね(笑)。
これ、めっちゃ入るので重宝してるんですよ。入所者の方々の遺品って基本的に処分されちゃうんですけど、そうした遺品を整理してる方がいたんですね。そのなかに「愛生」があって、一式どさっといただいたんです。
しばらくそのままになってたんですけど、清志さんが亡くなったあと手にとって読み始めました。せっかくだったらみんなで読んだほうがいいんじゃないかと思い、「愛生を読む会」を始めました。
最初はさざなみハウスの暇な時間にやってたんですけど、少しずつ「愛生」ファンが増えてきて、「私の住んでいる街でもやりませんか」と声がかかるようになりました。今は岡山市の少林寺で月に一回やったり、瀬戸内市の公民館でもやってます。
大石
朗読をするわけではなく、ひとりひとりで読むわけですか。
鑓屋
そうです。
ただ、古い「愛生」をどさっと渡されてもどこから読んでいいのかわからないので、最初は手ほどきが必要だと思ったんですね。 それで友人からアドバイスをいただいて、「愛生詩」を作ろうということになったんです。
大石
愛生詩?
鑓屋
「愛生」の中から気になる言葉をメモして、ランダムに組み替えて自分だけの詩を作るというものです。そういう作業をやりながら読んでいくと、好きな書き手が見つかるんですよ。
大石
それはおもしろいですね。
鑓屋
やっているうちにだんだん愛生詩に目覚める人が増えてきて(笑)。ここにいる峯岡さんも愛生詩にはまっちゃって。
寺尾
今日どれか読んでいただけませんか(笑)。
鑓屋
峯岡さんが「今までで一番よくできた」と送ってこられたものを読んでみましょうか。
『何もかも忘れて ブルースを口ずさむ 妖しきかなこの世紀末 一束の花かかへゆく 潮の上の満月』
大石
いいですねえ、素敵です(客席から拍手が起こる)。
鑓屋
「愛生」はひとつひとつの言葉が素敵で、拾いたくなるんですよ。峯岡さんは拾い上手なんですよ。
大石
「愛生」のなかで鑓屋さんが好きな文章も読んでもらいましょうか。
鑓屋
わかりました。(「愛生」の山を探しながら)これ、清志さんが表紙の絵を描いてるんですよ。
清志さんはレタリングを勉強していた時期があったそうで、慰問でやってきた方の看板も描いていたそうです。
大石
(愛生園で活動していたハーモニカ楽団である)青い鳥楽団のロゴも清志さんが考えられたんですよね。
鑓屋
そうみたいですね。青い鳥楽団が愛生園の外で演奏するときの看板も描いていたと聞きました。そうそう…私がこないだ読んでおもしろかったのが、大庭可夫(おおばかお)という方の「代筆修行」っていうタイトルの文章なんですけど。
みなさん愛生園に入ると、園内で過ごすうえでの名前を新たにつけたんですね。それにプラス、「愛生」に投書するためのペンネームを持っている方も多かったんです。大庭可夫さんというのもおそらくペンネームだと思うんですけど、この方の文章もすごくユーモアがあっておもしろいんです。冒頭の部分だけ読んでみましょうか。
『代筆修行』
私が入園して間もなく、現在の長島盲人会の前身である「杖の友会」が結成され、底辺でさげすまれ、座敷豚とまで言われていた視力障害者たちはライトハウスを拠点にして、本を読んでもらったり、手紙や文芸の代筆をしてもらったり、自分たちの生活向上のための話合いなどを始めるようになりました。
私は二十五才の若さでしたが、神経痛もちで不自由者棟の「かりがね」舎に入居していました。この雑居部屋には物影が時に見える程度のOさん、体は頑強だが全盲のHさん、四人のうちでは一番元気だが義足のRさんと私が住んでいました。
Oさんは、「杖の友会」の役員でしたから、ライトハウスの世話係が用があって読書や代筆ができない時に私は代役になったのです。それというのも、Oさんは大層真面目で鄭重に頭を下げられて頼まれますから、ついお引受けするハメになるのでした。
Oさんは世話係と十分連絡をとって下さり、気兼ねなく読書や代筆ができました。Oさんは私がやっていた俳句を趣味にしたい、と言って、高浜虚子の『ホトトギス』誌をともに購入して始めたのですが、 先輩の私のほうはちょっとも抜けなくて、Oさんの祝賀会ばかりでした。 それでも 「君の代筆のおかげで入選できて有難う」と言われますと、なんだか私も嬉しくなってきて代筆のしがいを感じるのでした。
(愛生 昭和63年7月号)
…こういう文章なんです。
大石
かつての愛生園の日常が伝わるエッセイですね。
鑓屋
そうですね。盲人会という目の見えない人たちの会では、入所者の方や職員さんが代筆をしてたんですね。まさに目の見えない人と晴眼者の共同作業でひとつの作品を作り上げていったんです。
寺尾
たとえば、「心」という一言にしてもひらがなにするか漢字にするか、指定しながら代筆していったわけですよね。
鑓屋
そうです。だから代筆する方も薄い辞典じゃ間に合わないということで分厚いものを買ったり、その人の言葉の使い方の癖を覚えたり、大変だったみたいです。
目が見えない方の作品は「点字愛生」にもたくさん掲載されてるんですけど、こうやってひとつひとつの文章が作られていたんだと驚きました。
大石
入所者の方だけでなく、職員の方や編集担当の方などたくさんのサポートがあって成り立っているわけですね。その痕跡が言葉から伝わってくるのがおもしろいですよね。 寺尾さん、いかがですか。
寺尾
さっき資料室で古い「愛生」を読んでたんですけど、資料室には光田園長が亡くなった1964年以降のものが置いてあって、川柳がたくさん載っていてとても興味深く読んでいました。短い川柳のなかに悲喜交交が詰まっているんですよ。
たとえば、藤田美雪さんという方の「戯れている蝶々が妬ましい」っていうすごくストレートな川柳にも目が惹かれました。
大石
ドキッとする言葉ですね。
寺尾
そうかと思うと、同じ藤田さんの作品のなかには「極楽がここにもあった、朝の風呂」というものもあって。その人が抱えてるものとか、日常の一コマとか、テーマとして詠まれるものがすごく幅広いんですよね。
あと、これは及川南洋さんという方の川柳ですけど(昭和31年5月号)、「ライバルに心の花を摘み取られ」というものがありました(客席から笑いが起きる)。
女性の入園者さんが少なかったことで、こういうことも結構あったのかな(笑)。
大石
僕らの生活となんら変わらない部分もやっぱりあるわけですよね。
鑓屋さん、「愛生を読む会」の参加者の方々からはどんな反響がありましたか。
鑓屋
最初はみなさん戸惑うんですよ。バサッと「愛生」の束を置かれても、どう読んでいいのかわからない。1時間も読めたらいいかなと思うわけですけど、気づいたら2時間ぐらいあっという間に経ってしまうものなんです。
こういった生活史が自分の住んでいる街に残っているかというと、なかなかないと思うんですよ。ハンセン病のことを超えて、かつてこの島に生きていた人たちに思いを寄せるという感覚になるんです。