Voice4:駒林明代さん

聞き手:鑓屋翔子(喫茶さざなみハウス店主)

文:大石始

写真:池田理寛

長島愛生園では2か月に一回、『愛生』という機関紙が発行されている。創刊されたのは開園の翌年となる昭和6年(1931年)。戦時中の一時期中断されたものの、創刊から90年が経過した現在も発行が続けられている。誌面では園内の出来事が綴られるほか、長年入所者の文芸活動の発表の場ともなってきた。

現在『愛生』の編集を担当しているのは職員の駒林明代さん。昭和30年代から編集に携わるようになった双見美智子さんに編集のノウハウを学び、2007年に双見さんが亡くなったあとも『愛生』を守り続けている。駒林さんは編集を通じて愛生園の暮らしをどのように見つめてきたのだろうか。『愛生』編集部でお話を聞いた。

●「きちんとここで生きていく」

『愛生』編集部は貴重な資料の宝庫だ。過去のバックナンバーはもちろん、ハンセン病にまつわる文献や各療養所の関連資料などがずらりと並んでいる。資料が詰まった書棚の前で駒林さんが話し始めた。

「私は岡山県人だけど、愛生園のことも療養所のことも知らなかったんですね。それなのに突然、編集部に入ることになった。私は介護職ではないし、事務でもないわけで、ある種特殊なところからここに入ったと思います。

 私が24、5年前に入ったときは主に双見美智子さんが編集をしていました。8年ほど双見さんの補助みたいなことをしていたんだけど、(双見さんが)病気で倒れて、いきがかり上私が受け継ぐことになった。職員ひとりで作るのはどうかなとは思いつつ、それから10年以上経ったからね。みなさんのおかげです」

双見さんは駒林さんにとって編集の師匠ともいうべき存在だ。双見さんはまだ1歳に満たない乳幼児を島の外に置いてきたまま、31歳のとき愛生園にやってきた。以降、双見さんは娘と再会することなく生涯を終えた。

「双見さんは小柄な方でしたけど、声にも張りがあって、上を向いてハハハと笑うんです。その笑い方がすごく好きでね。その一方で、病気になって背負ったものもすごくあって、生後10か月の女の子を(長島の)外に置いて入所されたんです。だから、双見さんの一番の軸というのは『娘に恥ずかしくない生き方をする』ということだった。

 ある日突然ここに会いに来たとき、うじうじいじけて暮らしていたら、『こんなお母さんだったのか』と言われるんじゃないか、そんなことは言われたくないと。だからこそ『きちんとここで生きていく』ということをモットーとされてたと思うんですね。何かに打ち込んで、きちんとやり遂げていく。そういうことを意識されていた方だと思います」

聞き手の鑓屋さんは双見さんが執筆された「女二人」という短編で双見さんのファンになったという。鑓屋さんが「そこには子供を持つことに関する思いが書かれていて、力強さとともに複雑な感情も読み取ることができました」と話すと、駒林さんはその話を受けて双見さんとの思い出をこう語る。

「この病気っていろんなタイプがあって、双見さんは指が不自由だったけど、綺麗な文字をさらさらっと書いていましたね。書くことがすごく好きだったんですよ。ただ、編集者というのは書くんじゃなくて、編集に徹さなきゃいけないっていうのよく言っていました。だから、双見さん名義のに作品はそんな多くないんです。基本的には編集者は表現者じゃないというポリシーを持っていました」

双見さんはひとりの編集者として愛生園を見つめ、自身を見つめた。『愛生』という機関紙もまた、双見さんの作品のひとつといえるのかもしれない。

●「機関紙には格好つける前のみんなの気持ちが載っている」

先にも触れたように『愛生』編集部の書棚にはさまざまな資料が丁寧にファイリングされている。背表紙に書き込まれた文字を見るだけで、アーカイヴの作業がいかに丁寧に進められてきたのか伝わってくるようだ。こうした資料の整理をしていたのが、駒林さんが「整理の神様」と呼ぶ和公梵字さんだ。

「和公さんは外でやってた職業柄、資料の整理を完璧にする人で、編集部に送られてくる資料を毎日こつこつと整理していましたね」

編集部の横には、神谷書庫という小さな書庫が建っている。こちらには愛生園と深い関わりを持つ精神科医、神谷美恵子の著書や関連本、全国各地の療養所が発行する機関紙などが収められている。和公さんをはじめとする数人の「整理の神様」の作業の成果ともいえるだろう。

「双見さんが入る前の編集部には編集に携わる人が3、4人いたそうで、そのなかには『集め屋さん』がいたそうなんですよ。『愛生』も本ができたら各療養所に送るわけですが、こちらにも同じように全国の療養所から機関紙が送られてくる。療養所のなかにはそうした機関紙を廃棄しまうところもあったそうなんですが、愛生園では集め屋さんが段ボールに詰めておいてくれたんです。

 神谷美恵子さんが昭和54年(1979年)に亡くなったあと、神谷書庫を作ることになって、そこに何を納めるか双見さんが任されたんですね。そのとき双見さんは機関紙を納めようと主張したんです。綺麗な1冊の本を作るために何年もの歳月を費やすわけだけど、時間があるから、みんな格好つけるんだと。だけど、機関紙には格好つける前のみんなの気持ちが載っている。だから機関紙は大事なんだ、そういうことを主張したんですよ」

『愛生』のなかにもまた、入所者や職員たちの生々しい言葉が掲載されている。喜び、怒り、悲しみ、楽しみ。格好つけることのない等身大の言葉だからこそ、時代を超えて読む者の心を打つ。

●「来ないとわからないことがある」

駒林さんは「集め屋さんが集めたもののなかには、本だけじゃなくてペラペラの紙切れもたくさんあった」と話す。集め屋さんたちはそれをファイリングし、種類ごとに分け、背文字を丁寧に記した。私たちが貴重な資料にアクセスできるのは、和公さんのような集め屋さんたちのおかげなのだ。

また、「整理の神様」である和公さんは、さまざまな場所を自分の足で歩き、土地の情報を身体に刻み込む「歩きの達人」でもあった。駒林さんも和公さんに触発され、各地を歩くようになった。そのため、駒林さんは和公さんのことを「歩きの師匠」とも呼ぶ。

「私が最初ここに来たとき、『園内を案内してやろう』といろいろ連れて歩いてもらったんです。和公さんは岡山のことにも本当に詳しかったんだけど、そういう場所を全部歩いて回ってるんですね。『わざわざ山に行かなくても歩くことはどこでもできる。道はどこでもあるから』とよく言ってました。

 私はもともと歩くのが大嫌いだったんですけど、子供が大きくなって自分の時間が十分使えるようになってきたら、なんとなく歩きに目覚めてしまった。和公さんとも『あそこに行きましたよ』『おお、あそこはな……』と話も合うわけですよ。ちょっとずつ山の名前とかも知り出して、『近場でこんな山があってあそこもいいぞ』みたいなことも教えてもらいました」

その和公さんももうこの世にいない。最後まで「シニアカーには絶対に乗らん」と言い、最晩年も杖をつきながら『愛生』編集部にやってきたという。歩くという体験を通じて、初めてわかることがある。駒林さんは体験することの大切さをこのように訴える。

「やっぱり現場に行くことって大事なんですよね。愛生園に実際にやって来て、何かを見て、何かを知ることと、本を読んで得た知識ってやっぱり差がある。本を読んで得た知識が悪いとは言わないけど、やっぱり来ないとわからないことがあると思うんですよ。そういう意味で言えば、私も愛生園のことをまだまだ知らないんです」

●「世界一幸せな職場だったんですよ」

鑓屋さんによると、過去の文章の転載も多い他の療養所の機関紙に比べると、『愛生』は現在も書き下ろしが多く、「現役の雑誌という感じがする」という。駒林さんはこう話す。

「よその療養所の話を聞くと、機関紙を作るにしても原稿がなくて大変というのはよく聞きますね。ただ、うちは原稿がなくて困ったという経験がないんですよ。今もどんどんページ数が増えているし、協力してくれる職員もいるので、ありがたい状況の中でやってます」

駒林さんは「双見さんは4ページの新聞みたいになっても最後まで続けるんだという気持ちを持っていた」と話し、こう続ける。

「たったひとりでも投稿してくれるのであれば、発行し続けなくてはいけないと考えていました。それは今でももちろん使命としてあります。『愛生』を残すと同時に、残された資料を整理し、管理していかなくちゃいけないんです。資料というのはこういうふうに整理して、初めて有効に使えるようになる。双見さんがよく言ってたのは、『資料っていうのは使わなきゃ駄目なんだ』っていうこと。使ってもらってナンボだと思うんですよ」

喫茶さざなみハウスでは、鑓屋さんを中心に過去の『愛生』を読む「愛生ヲ読ム会」という会が開催されている。参加者はそれぞれの冊子を持ち寄り、黙読する。鑓屋さんたちはそうやって『愛生』に刻み込まれた入所者の生活史を読み解こうとしている。そうした試みもまた、駒林さんの話す「資料を使う」試みのひとつといえるだろう。

駒林さんはこの2022年で定年退職を迎えるが、今後も『愛生』の編集作業を行う予定。そこには使命感だけでなく、双見さんや和公さんとの仕事を通じて育まれた『愛生』に対する愛情があるようにも感じられた。

「この部屋のこの場所に集まって、みんなでお茶を飲みながらいろんな話をしました。幸せな時間でしたね。仕事なのにこんなに幸せでいいのかなと思っていました。ずっと言い続けてるけども、私にとっては世界一幸せな職場だったんですよ」

posted : 2022.01.24