Voice3:内田早苗さん・播磨喜子さん

聞き手:鑓屋翔子(喫茶さざなみハウス店主)

文:大石始

写真:池田理寛

長島の地で人生の大切な時を過ごしたのは、入所者だけではなかった。内田早苗さんと播磨喜子さんの姉妹は愛生園の元職員。昭和20年代に愛生園に就職した当時、ふたりはまだ十代だった。結婚を機に一時的に仕事から離れたことはあったものの、定年退職するまでこの島の移り変わりを見つめ続けた。

早苗さん92歳と喜子さん87歳の姉妹だけが知る長島ストーリー。20年前は語れなかったものの、今だったら語れることもあるという。さざなみハウスの穏やかな空気に包まれながら、早苗さんと喜子さんの話に耳を傾けてみよう。

●「一緒に泣きながら話を聞いたりね」

早苗さん・喜子さん姉妹は一族が現地で商売をしていた関係から朝鮮半島で生まれ、戦後、命からがら日本に引き揚げてきた。姉である早苗さんが愛生園に就職したのは、終戦からまもない時期だったという。

「引き揚げてきたばかりで生活にも困っていたし、近所の人に『面接にいかないかい?』と誘われてここにきたんです。それからすぐに就職しました」(早苗さん)

そのとき早苗さんは17歳だった。愛生園に入った当初の仕事は庶務。入所者よりも外部の関係者や職員とのやりとりが多かったというが、「2年ほどして分館(現・福祉課)に移りました。患者さんが郵便物を出しにきたり、直接会う機会も増えました。忙しかったですね」と、早苗さんは当時のことを振り返る。

早苗さんは愛生園で4年ほど働き、結婚を機にいったん退職。代わりにやってきたのが妹の喜子さんだった。それが昭和27年(1952年)の春のことだった。

「うちが貧乏だったから、高等学校には行けないだろうと諦めていた」(喜子さん)

「喜子さんは進学したかったと思うよ。行かせてあげたかったけど、行かせてあげれんかった。私は4年ほど愛生園で勤めて、結婚の話が出てきたから仕事を辞めることになって。私の代わりに喜子さんに働いてもらうことになった。大変だったと思う」(早苗さん)

就職する以前、喜子さんは愛生園に対して決していい印象を持っていなかったという。

「近所の人たちもあまりいい場所だとは言ってなかった。どうしてそんなところに勤めるんだ?と聞かれたこともあった。だから、心配はありましたよ。そう聞かれたときにどう返事をすればいいか、考えておかなくちゃいけないなって。でも、(愛生園の)みんなが優しくしてくれたから気が楽になりました」(喜子さん)

喜子さんは就職当初の仕事についてこう回想する。

「福祉分館で郵便物の整理だとかいろんなことをしていました。患者さんとの接触も少しはありました。話し相手になることもあったし、教えられることもたくさんあった」(喜子さん)

たとえばどういうことですか?――鑓屋さんの質問に対し、喜子さんは言葉を選びながらこう話す。

「どう言ったらいいかな……みんないろんな苦しみを経験してきているけれど、私らはそのことを知らないまま(愛生園に)踏み込んでいったような感じがあってね。私たちよりも小さな子たちが苦しんでいたから、愛おしいという気持ちがありました」(喜子さん)

喜子さんが愛生園に就職した数年後、日本は高度経済成長期に突入。好景気に日本中が沸くことになる。だが、愛生園の入所者たちはそれぞれに複雑な事情を抱え、苦しみや悲しみと向かい合っていた。早苗さんと喜子さんがそうした入所者の心情に寄り添うこともあったという。

「身の上話を聞かせてもらったり、そういうことはありましたね。子供は子供で辛い思いをしてるし、親は親で複雑な思いを抱えていた」(早苗さん)

「一緒に泣きながら話を聞いたりね」(喜子さん)

「気持ちがわかったといったら嘘になるけど、わかったような気がしていました。島の外に子供を置いてきたという人もいたし、かわいそうでね。そういう子供が何年後かにお母さんに会いにきたということもありました。本当によかったなと思ってね。(愛生園に)長くいないとそういうことはわからんでしょうね」(早苗さん)

●「職員はどんなことがあっても出勤せにゃいけん」

早苗さんと喜子さんが愛生園を定年退職したのは平成に入ってからのこと。数十年間に渡って長島の移り変わりを見つめ続けてきたふたりだけに、話を伺っていても貴重なエピソードが次々に飛び出してくる。

「昔は愛生園にも船じゃないと来れなかったからね(註:本州と長島を隔てる海峡に邑久長島大橋がかかったのは1988年)。船いっぱいに職員が乗ってね。船に乗り遅れまいと桟橋まで走ったこともあったけど、橋ができてから走る必要がなくなった」(早苗さん)

「台風のときは波が荒くてね、死ぬんじゃないかと必死に船にしがみついたこともあった。思い出すといまだに怖い」(喜子さん)

「ひどいときがあったね。職員はどんなことがあっても出勤せにゃいけんから。橋ができてからは私は車に乗せてもらって、喜子さんはバスで来てた。乗り継ぎを上手にやらないといけなかったから大変だったと思うよ」(早苗さん)

「朝ごはんを食べる時間がなくて、バスのなかでパンを食べてたから。運転手さんに『パンぐらい家で食べてこい』と笑われたこともあった(笑)」(喜子さん)

ふたりが愛生園を退職して20年以上の月日が経った。鬼籍に入った入所者も少なくないが、なかにはふたりと数十年の付き合いになるという旧友もいる。愛生園の自治会で会長を務める中尾伸治さんもそのひとりだ。昨年はおよそ30年ぶりに姉妹と再会し、旧交を温めた。

中尾さんによると、自分が島の外の病院に入院した際、喜子さんが付き添ってくれたこともあったという。その様子を見た看護師からは、夫婦と勘違いされたこともあったらしい。

「付き添いという仕事が看護になかったから、福祉の人間が行くことになったんです。それで私がついていってあげた」(喜子さん)

――泊まり込みだったそうですね。

「なにしろ遠いからね。私が車を運転せんもんで、運転してもらって。(中尾さんの)病気が良くなって、あのときはほっとしました。悪いまんまだったらどうしようかと思っていました」(喜子さん)

――おふたりがここにくると伝えたら中尾さんはとても喜んでいました。

「それはよかったね」(早苗さん)

「そういっていただけて嬉しいですね。(中尾さんとは)同級生なんですよ。同い年」(喜子さん)

――こないだ久々にお会いしたんですよね?

「うん、懐かしかった。変わってないね。元気」(早苗さん)

「私はまだ子供だけど、大人になっとった(笑)」(喜子さん)

――姉妹で働いていると男性から声をかけられることもあったんじゃないですか。

「それはなかったかな(笑)」(早苗さん)

「私の送別会のとき、美空ひばりの失恋の歌を歌いました。『ひとり酒場で飲む酒は』という歌詞の歌(美空ひばりが1966年に発表した『悲しい酒』)。そのときは盲人会の人たちに教えてもらいました。そんな歌い方じゃだめだとか言われながら」(喜子さん)

「上手に歌いよったよ」(早苗さん)

鑓屋さんに当時のことを楽しそうに話す姉妹の表情は、まるで女学生のように光り輝いていた。

●「日の本の癩者に生れて我が悔ゆるなし」

愛生園では開園以来、さまざまな文芸グループが結成され、文芸活動が活発に行われてきた。喜子さんもまた川柳を嗜み、ときには新聞に掲載されることもあったという。

――愛生園の川柳会にも参加してたんですか?

「川柳会の人たちは程度が高いからね。私たちの歌はなかなか褒めてもらえなかった。お上手なんだもん、ここの人たちは」(喜子さん)

「短歌や俳句もお上手な方が多かった。みなさん集まってやっていたと思います。私らがそういう会に行くことはなくて、『愛生』誌で読むぐらい」(早苗さん)

――昔の『愛生』誌を読むと、よくこんな言葉が出てくるなと驚かされます。

「愛生園の敷地内にある歌碑に『日の本の癩者に生れて我が悔ゆるなし』という明石海人(註:愛生園で死去した歌人)の言葉が刻まれてるけど、あの言葉は今も忘れられない。よくそういう気持ちになれたもんだとつくづく感心しました。自分だったらそんな気持ちに到達できなかったと思う」(喜子さん)

入所者の心情に寄り添うものの、彼らの苦しみを完全に理解することはできない――早苗さんと喜子さんのそうした眼差しは、入所者と日々会話を交わしている現在の鑓屋さんの視点とも共通している。対話を通じて3人の間に自然な共感が生まれていくのがわかる。

――またいろんなお話を聞けたらいいなと思います。

「そうじゃな。なかなかええ話はできませんけど(笑)」(早苗さん)

「昨日今日のことが何年も前のことにも思えるけど、こうやって話すといろいろ思い出してくる。そうそう、こんなことがあったと」(喜子さん)

愛生園での暮らしには素晴らしい瞬間もあれば、苦しい瞬間もあった。「辛いこともあったと思うよ。今はこうやってみんなと話ができるし、いいことだと思う」――早苗さんの言葉には、伴走者ならではの説得力があった。

posted : 2022.01.24