Voice2:宮崎かづゑさん

聞き手:鑓屋翔子(喫茶さざなみハウス店主)

文:大石始

写真:池田理寛

宮崎かづゑさんは長島愛生園きってのエッセイストだ。昭和3年(1928年)生まれの93歳。80歳を過ぎてから本格的な執筆活動を始め、これまでの人生と長島での日々を綴った『長い道』『私は一本の木』などの著作を発表。愛生園の機関誌『愛生』でも連載を続けており、瑞々しい筆致のファンも多い。

自室へと私たちを迎え入れてくれたかづゑさんは、挨拶もそこそこにこう話し始めた。

「分かっていただきたいのはね、私は本当に幸せな生涯だったということ。愛生園がいかに素敵なところだったかということは分かっていただきたくて」――そんな言葉から始まったかづゑさんのトークは、2時間を優に超えた。

●「本の中にしか逃げ道がなかったの」

かづゑさんが愛生園にやってきたのは10歳のとき、昭和13年(1938年)のことだった。前年に日中戦争が開戦し、その年には国家総動員法が制定されるなかで、親元を離れた暮らしが始まった。

「私の子供時代はみんな着物を着て、下駄で歩いていた。元気になったらそれをほどいてモンペを作ったり、ワンピースを作ったり。愛生園には当時水道が通っていて、各部屋に畳が敷いてあって、電気がそれぞれに付いていたの。今でいう高級マンションみたいなもので、それはすごいことだった。しかも食事が三度出たの。全国の療養所でも愛生園の食事が一番美味しいと言われてた。特に味噌汁。ちゃんといりことかつお節で出汁をとっていたから、誰が食べても美味しいと言ってたの。そういう恩恵を忘れてしまうのね、人間って」

かづゑさんはそう語る。心の奥には今も愛生園に連れてこられた同世代の子供たちの苦しみが生々しく残っているという。

「私は同じ乙女寮(19歳から25歳までの女性が入る寮)の子の手当てもしていたの。オキシドールやヨードチンキを付けてあげて、包帯を巻いて。自分のことだけが不幸だと思っていたら、それは違う。栄養失調で亡くなってしまった子もいたし、私はあのころ亡くなってしまった同じ世代の子たちのために今もお参りをするの。辛かったね、と。だって、華の17歳や18歳よ。夢も食べるものもない。『かづちゃん、手当てして』と言われても、簡単なことしかできない。私の大事な友達も亡くなってしまったし、本当にかわいそうだった」

かづゑさん自身、入園直後には注射針から雑菌が入ったため左足の大手術をするなど、辛い幼少時代を送った。治療や戦争のため、学校に通えたのは2年ほど。そんな生活のなかで心の支えとなったのが、国内外の文学作品だった。

十代のころはアレクサンドル・デュマ・ペールによる小説『モンテ・クリスト伯』に夢中になった。かづゑさんの著書『長い道』によると、日本のものでも海外のものでも、生活や時代が読み取れる物語が好き。ルーシー・モンゴメリの『赤毛のアン』シリーズやローラ・インガルス・ワイルダーの『大きな森の小さな家』シリーズは、何度読んでも飽きなかったという。

「戦争が始まってからは勉強どころじゃなかった。当時は身体の不自由度の高い人は一人前の扱いをされなかったわけ。愛生園にはいろんな人がいたけど、私はとにかく足が悪くて、身体が弱かった。朝礼は長いと倒れそうになって、帰って横になっていた。だから、学校にはまともに行けなかったの。岡山弁がひどくて笑われたし、味方は一切いなくて、心が安らぐのは布団のなかだけ。本の中にしか逃げ道がなかったの」

本を読むことで救われていた?――鑓屋さんの質問に対し、かづゑさんは「そうね」と同意し、こう続ける。

「本の中の物語にのめり込むことで、現実から逃げていたのかもしれない」

冒頭でも触れたように、海外文学にのめり込んでいた少女が本格的な執筆活動を始めるのは、それから60年以上、80歳を過ぎてからのことだった。

●「病気のことで悩んでいる暇がなかった」

かづゑさんは22歳で孝行さんと結婚。以来、園内の購買部経理担当者として働く孝行さんを支えながら、孝行さんが亡くなるまで添い遂げた。

結婚してからかづゑさんの第二の人生が始まった。それまでは包丁も持ったことがなかったというが、やがて料理を覚え、孝行さんはもちろん、自宅に遊びにやってくる友人たちにも振る舞った。ミシンにのめり込み、裁縫に多くの時間を費やしていた時期もあったという。

「結婚してすぐに月払いでミシンを買ってもらって、洋服の型紙を作る方法を教えてもらった。下着からブラウスから布団から何まで自分で縫ってたの。そういうことも抵抗がなくて、とりあえずやってみようと。やっていくうちにいつの間にか腕が上がっていたというだけ。忙しかったし、病気のことで悩んでいる暇がなかった。これからゆっくり悩むわ(笑)」

40代でうつ病を患うと、病はその後も長くかづゑさんを苦しめた。

「結構ひどい時期もあった。夜中に船の音をずっと聴きながら、余計なことを考えないように一生懸命童謡を歌ってたの、スローテンポで。朝5時になると向こうから貨物船が出てくるので、そうするとようやく1時間ぐらい眠れる。そういう時期が長く続いたの。大阪万博(昭和45年)の頃は特にひどくて、拒食症で食事を一切食べられなかった。ミキサーでバナナやリンゴをつぶすと、ガラスコップ一杯になる。それが一日の食事だったの」

本格的な執筆活動を始めたのは、親友トヨちゃんとの最期の日々を綴った「あの温かさがあったから生きてこれたんだよ」という一編がきっかけだった。もともとは愛生園の機関誌『愛生』で発表され、のちにかづゑさんの著書『長い道』に収められることになるこのエッセイには、魂の輝きが瑞々しく描写されている。

手術のあとで食欲が減退したトヨちゃんのため、かづゑさんはスープを作った。「本物の出汁を使い、野菜を軟らかく煮てポタージュを作って牛乳で伸ばし、ひと匙でも口に入ればよいと思って、とにかく病室に持っていった」(「あの温かさがあったから生きてこれたんだよ」)結果、トヨちゃんは「おいしい、おいしい」とそのスープを飲んだのだという。それからかづゑさんは親友のためにスープを作るのが日課となった。

スープのレシピは、テレビ番組で見た料理研究家・辰巳芳子さんのレシピが元になった。人を介してそのことを知った辰巳さんは2010年に愛生園を訪問。かづゑさんとの交流が始まった。そうやってかづゑさんの活動と言葉は少しずつ愛生園の外へも伝わっていった。

鑓屋さんもまた、かづゑさんの著作のファンのひとりだ。「喜怒哀楽全部書いてあるなと感じるんです。喜びや楽しみだけじゃなくて、かづゑさんの怒りのエネルギーも感じる」と伝えると、かづゑさんは「そう? 感じる? 自分のことだから聞くのもいやなのよ、本当のところは」と矢継ぎ早に返答。部屋にまた笑いが起きた。

「共感もするし、すごく教えられるんです。だから、かづゑさんに会ってみたいなとずっと思っていたんです」

「ありがとう。私もあなたに会ってみたいと思っていたわ(笑)。あなたは『愛生』誌にも書いてるじゃない? 昔の『愛生』に書いてあった短歌や俳句は本物だから。昔はとってもレベルが高かった。職員や患者が集まって短歌会や俳句会をやっていたの。そこが出発点だからね」

取材日の数日前にはかづゑさんのもとに数人の映画関係者がやってきて、愛生園におけるかづゑさんの存在の大きさについて語っていったという。

「でもね、私は『なにそれ?』って答えたの(笑)。人が読んでるとも思ってないし、評価も聞いたことがない。どこがいいの?って。私が書いてるのは本当にありきたりなこと。意識しているのは、『(文章が)硬くない』ということと、『嘘はつかない』ということ。財布のなかに100円しかなかったら100円と書く。そういうこと」

●「本当にすごいの、人間って」

かづゑさんの言葉は、彼女のエッセイと同じように瑞々しく、しなやかだった。取材がスタートしてから2時間近い時間が経過していたものの、かづゑさんの口調が緩むことはなかった。

「私はね、人のことを気にしている暇がなかったの。お化粧道具を買ったこともないし、買うお金もなかった。1日1日があっという間。それで90何年、人生短くて短くて。もっと長くてもいいぐらい。短いよ、本当に。長生きしたという感覚がないわ。

 長生きできたのは愛生園あってこそ。戦争に合わないだけでもすごいじゃない? 岡山だって空襲があったし、愛生園まで灰が飛んできたよ。ひらひらいっぱい。高松の空襲のときも空から火の粉がたくさん落ちるんだもん。私はここの海岸からそれを見てたよ」

かづゑさんは何度も何度も「私は幸せだった」と口にした。その言葉の裏側には、戦時中に亡くなっていった人々に対する追悼の思いがある。

「みんなお腹を空かせて哀れな死に方をしていった。そのとき亡くなった子供たちのために、私は納骨堂に行くの。ここまで生きてこれたということが幸せじゃない? 視力もなんとかここまで持ち堪えれくれたし、うちの人も94歳まで生きてくれた。それでも早いと思うけど、お互い90歳以上生きることができたわけだし」

看護師さんたちとの約束の時間を過ぎ、そろそろ取材を終わらせなくてはならない。鑓屋さんがまとめの言葉を口にし、撮影スタッフが片付けを始めた。そんななかでかづゑさんが発した次の言葉を私は忘れることができない。

「人間はね、たとえ囲っていてもどこからでも芽を出すことができるの。大木と一緒。本当にすごいの、人間って。縛られてなんかいない。もしも縛られていると思ったら、精神状態が良くないんだわ」

まさに名言。常に新しいことに挑戦し、自由に枝を伸ばしてきたかづゑさんの言葉には、確かな力があった。

posted : 2022.01.24